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''Forma Urbis Romae(都市ローマの形)'' 或いは セウェルス帝の大理石平面図とは、大理石製の古代都市ローマの地図である。セプティミウス・セウェルス帝時代の203年から211年の間に製造されたとされる。元々のものは幅18 m (60 ft)、高さ13 m (45 ft)あり、の内部の壁に貼られた150個の大理石の石版に彫られていた。縮尺は凡そ240分の1で平和神殿周囲やローマ浴場と ''インスラ''の平面プランが詳細に記されている。平面図の境界は大理石上の空白部分で区切られていて、現代の地図のような地理的・政治的境界とは異なっている。 平面図は中世の間に段々と壊れて行き、大理石は石灰を作るために利用された。1562年に、教会から発掘権を購入した人文主義者でコンドッティエーレのTorquato Contiの指揮の元で若き彫刻家 :en:Giovanni Antonio Dosioは、平和神殿の近くで''フォルマ・ウルビス''の破片を発掘した。Contiは発掘された断片を枢機卿 アレッサンドロ・ファルネーゼに贈呈した。この枢機卿は、贈られた断片を古物収集家である:en:Fulvio Orsiniや彼の私設図書館員 :en:Onofrio Panvinio に委託した。断片の意味するところのものには殆ど興味をもたれなかった〔Rodolfo Lanciani, ''Storia delle scavi a Roma'' (Rome) 1903, II, pp 169ff, 208ff.〕。 1000を越える大理石の断片があり、元々の平面図に描かれた領域の10%程度が復元されている。これらはカピトリーノ美術館の :en:Palazzo dei Conservatori に保管されている。 ==研究経過== 平面図の断片は数世紀間に渡って諸学者を虜にしてきた。ルネサンス時代の諸学者は、コロッセオやキルクス・マクシムスのような通常著名な地理上の標識となる約250の断片の位置を確定した。20世紀後半になると、Guglielmo Gattiや :en:Lucos Cozza、Emilio Rodríguez Almeidaが幾つかの断片の場所を確定し、その内容を出版した。その他の学者達(Claudia Cecamore、Filippo Coarelli、 Daniele Manacorda、Domenico Palombi、Luigi Pedroni、David West Reynolds等)は多くの断片の配置を再解釈した。2002年、スタンフォード大学による研究プロジェクトは4つの断片の位置の確定と、パターン再認識アルゴリズムを用いて9つの断片を組み合わせることに成功した。考古学と文献史料を用いた研究では、1996年からPier Luigi Tucci (ジョンズ・ホプキンス大学) が5つのアウグスタン地区において24の断片の場所を位置づけ、カエリウスの丘の上にあるAQVEDVCTIVMの地域、及びテスタッチョ (ここに関しては :en:Lucos Cozzaとの共同研究)の''opus incertum''にある共和政時代の建築物、及びフラミニウス劇場 (特にアレーナの船と Via Aniciaのより早期の大理石平面図)の新解釈を提案した。 なお、スタンフォード大学のプロジェクト(外部リンク参照)では、地図をクリックすることで断片を参照することができる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フォルマ・ウルビス・ロマエ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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