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フォートウエイン : ウィキペディア日本語版
フォートウェイン

フォートウェイン()は、アメリカ合衆国インディアナ州アレン郡にある都市であり、同郡の郡庁所在地である。2012年推計による人口は254,555人であり、インディアナポリスに次ぐ州内第2位、国内では第74位の都市である。州内では北東部に位置し、東のオハイオ州境まで約18マイル (29 km)、北のミシガン州境まで50マイル (80 km) である。アレン郡、ウェルズ郡ウィットリー郡で構成されるフォートウェイン大都市圏の主要都市であり、都市圏人口は推計419,453人である。上記3郡の他にアダムズ郡デカルブ郡ハンティントン郡ノーブル郡スチューベン郡を併せた広域都市圏の推計人口は615,077人となっている〔。
1794年、アメリカ独立戦争時の将軍かつ政治家アンソニー・ウェインの指示により、アメリカ陸軍マイアミ族インディアンのケキオンガ集落近くに建設した一連の砦で、ウェイン砦が最後のものだった〔Brice, Wallace A. (1868) ''History of Fort Wayne, from the Earliest Known Accounts of this Point to the Present Period''. D.W. Jones & Son.〕。砦はウェイン将軍に因んで名付けられた。セントジョセフ川、セントメアリーズ川およびモーミー川の合流点に、ヨーロッパ人開拓者のための交易基地として町が設立された。1823年には区画割りされ、ウォバッシュ・アンド・エリー運河の完成や鉄道の開通後には大きく発展した〔。かつてはブームを呼んだ工業都市が現在はラストベルトに属しており、近年は経済の多様化が進んで、物流、輸送、医療、製造、および専門サービスと事業サービス、レジャーと宿泊、金融サービスに頼るようになっている〔。防衛産業の中心でもありその雇用数は数千人規模になっている。
フォートウェインはインディアナ州北東部の文化中心であり、15の博物館や画廊、日刊紙2紙〔、交響楽団、植物温室、動物園、マイナーリーグの3チーム、NCAAディビジョンIのチーム、86の公共公園がある〔。インディアナ州では5番目に大きい公立大学であるインディアナ大学・パデュー大学フォートウェイン校や、私立のコンコーディア神学校、インディアナ工業大学、セントフランシス大学もある。またアメリカ開拓の伝説となっているジョニー・アップルシードが埋葬されている場所として認識されている。
フォートウェイン市は1982年、1998年、2009年に全米都市賞を受賞した。
== 歴史 ==
17世紀半ば、マイアミ族インディアンが、モーミー川、セントジョセフ川、セントメアリーズ川が集まる所に、マイアミ族と関連するアルゴンキン語族の首都として、ケキオンガと呼ぶ集落を設立した。1680年代、この地域では初めてのヨーロッパ人となるフランス人交易業者がケキオンガ近くに基地を設立した。そこは五大湖ミシシッピ川の間で陸上輸送を行う場所だった〔Goodrich, De Witt C. and Charles Richard Tuttle (1875) An Illustrated History of the State of Indiana. (NP:R. S. Peale & Co., ND).〕。1696年、フロンテナック伯爵がジャン・バティスト・ビソー・スール・ド・ビンセンヌをこのフランス基地の指揮官に指名した〔"Vincennes, Sieur de (Jean Baptiste Bissot)," The Encyclopedia Americana (Danbury, CT: Grolier, 1990), 28:130.〕。1697年には、フランスはこの地に最初の砦であるマイアミ砦を建設し、ケベックセントルイスの間に建設した一群の砦の1つに位置づけた。ビソーが死んでから数年経った1721年、マイアミ砦の代わりにサンフィリプ・デ・ミアミ砦が建設された〔Peckham, Howard Henry (2003) "Indiana: A History". ''W.W. Norton'' ISBN 0-252-07146-8.〕。1744年、ルイジアナ総督の命令により最初の国勢調査が行われた結果は、フランス人約40人と、マイアミ族約1,000人だった〔。この領土にもフランスとイギリスの間で緊張関係が増し、1760年、フレンチ・インディアン戦争の間にフランス軍が降伏した結果としてこの地域はイギリス帝国に割譲された。1763年、ポンティアック戦争の一部として、様々なインディアン部族がイギリス支配に反旗を翻し、砦を占領した。マイアミ族はケキオンガの支配権を取り戻し、それが30年間以上続いた〔。
1790年、アメリカ合衆国大統領ジョージ・ワシントンがアメリカ軍にインディアナを確保するよう命じた。リトルタートル酋長やマイアミ連邦に対して、ケキオンガで3回の戦闘が行われた。最初の2回ではマイアミ族戦士がアメリカ軍を破った。アンソニー・ウェイン将軍が3回目の遠征隊を率い、ケキオンガの戦士達が居ないうちに集落を破壊した。マイアミ族が破壊された村に戻ってくると、リトルタートルが和平交渉を行った。ウェイ将軍がそれを拒否すると、マイアミ族はフォールン・ティンバーズまで進行し、そこで1794年8月20日に起きた戦いで敗北した。同年10月22日、アメリカ軍はマイアミ連邦からウォバッシュ・エリー陸送路を奪い、その3つの川が集まる場所に新しい砦を建設して、将軍に因みウェイン砦と名付けた。
インディアナが州に昇格してから3年後の1819年、陸軍の駐屯地が廃止され、連邦政府土地管理局が、セントメアリーズ条約で地元インディアンから割譲された土地を売りに出した。1823年には区割りが引かれ、重要なフロンティアの前進基地となり、1829年にはフォートウェイン町として法人化された。この時の人口は300人だった。ウォバッシュ・アンド・エリー運河が開通して、五大湖やミシシッピ川への交通が容易になり、フォートウェインでは経済的な機会が増大した。1840年2月22日、フォートウェイン市として再度法人化された時は、人口2,000人だった〔Fort Wayne: History: County Seat Becomes Industrial Center . Retrieved on 2008-05-04.〕。市のニックネームである「頂点の都市」は、この運河で最高地点にあることから来ている〔。市の初期発展にとってウォバッシュ・アンド・エリー運河は重要だったが、最初の鉄道であるピッツバーグ・フォートウェイン・アンド・シカゴ鉄道が1854年に開通して、これと競合すると直ぐに、運河は時代遅れになった。
20世紀への変わり目に、市の人口は5万人近くに達していた。これにはドイツアイルランドからの移民が大挙入ってきたことが貢献した。「都市労働階級」は工業と鉄道の関連産業で成長した。市の経済は製造業に多くを負っており、それが長い間に市内から出てきた著名な発明と共に革新の時代を導いた。フォートウェイン市からは、ベーキングパウダー、ガソリン・ポンプ、国内初の市営照明システム、最初のハイファイ蓄音機、酒気検知器〔USDOJ: US Attorney's Office - Northern District of Indiana . Retrieved on 2013-05-15.〕、冷蔵庫ゴミディスポーザートランジスタラジオジュークボックス電卓が開発され、1972年には家庭用ゲーム機が出された。1913年、3つの川が溢れて7人が死亡し、15,000人が家を無くし、5,500棟以上の建物に損傷を与え、市始まって以来の自然災害となった。
自動車が普及してくると、国内初の大陸横断ハイウェイであるリンカーン・ハイウェイの通り道となった。航空機の時代が始まると、1919年には市初の空港であるスミス飛行場が開設された。この空港は市の主要空港だったが、1947年に第二次世界大戦で軍用に使われていた飛行場が市に移管され、フォートウェイン国際空港ができた。1929年に始まった世界恐慌の影響を受けると、大半の工場が労働者を減らした〔Iwan Morgan, "Fort Wayne and the Great Depression: The Early Years 1929–1933," ''Indiana Magazine of History,'' June 1984, Vol. 80 Issue 2, pp. 122–145 online 〕。株式市場の崩壊はあったが、当時州内では最も高いビルとなる市内初の高層ビル、リンカーン・バンク・タワーが建設された。1935年までに、ニューディール政策公共事業促進局で、新しい公園、橋、水路および520万ドルをかけた下水処理場などインフラの改良で、7,000人分の職が生まれた〔U.S. Writers' Program, ''Indiana, a Guide to the Hoosier State'' (1941) p. 193〕。
第二次世界大戦後の好況で、市は再度成長を始めたが、中心街から郊外部に企業が緩りと移り始めた。1950年から1955年で5,000棟以上の家屋が建設され、その多くはアレン郡田園部の大型区画に建てられた。郊外の小規模ショッピングセンターが続き、1947年には市で初のアンソニー・ウェイン・ビレッジがオープンした〔。1950年、市の北部で初のバイパス道路コロシアム・ブールバードが開通し、それに続いて市初の競技場である戦争記念コロシアムが開設されて、郊外拡張への新しい機会が生まれた。この競技場はNBAフォートウェイン・ピストンズが1952年から1957年まで本拠地にした。1965年には初の屋内型ショッピングモール、グレンブルック・スクエアがオープンし、1969年にサウスタウン・モール、市の北と西に州間高速道路69号線の開通と続き、1960年代を通じて小売業は中心街から出て行く一方だった。フォートウェイン住居建築業協会の推計に拠れば、1970年代の新築家屋の80%以上が市の郊外部に建てられた。
ラストベルトに在る多くの都市と同様に、1980年代は都心部が衰退し、犯罪が増加し、ブルーカラー製造職の仕事が減った。中心街とその周辺地区では、住民や企業がアレン郡の田園部にどんどん出て行って衰退を続けた。1982年の洪水では住民9,000人が避難することになり、2,000棟の建物に被害を出し、被害総額は5,610万米ドルに昇った。当時のロナルド・レーガン大統領が急ぎ視察に訪れた。1990年代は転換の時代であり、当局は犯罪の抑制、経済の多様化および中心街の再開発に注力した。1999年までに犯罪率は1974年の水準まで低下し、市経済が快復し、1998年の失業率は2.4%付近で推移した。中心街の荒廃した建物を取り壊し、1991年にはワン・サミット・スクエアの広場、1998年にはコートハウス・グリーンが完成し、1995年から1999年に1,690万米ドルを掛けてヘッドウォーターズ・パークが造られた。ヘッドウォーターズ・パークは市民が集まる場所となり、市が5,000万米ドルを掛けた洪水制御計画の中心的存在となった〔。1994年、町の設立から200周年を祝った〔。
2000年代に入っても中心街の再開発と投資に集中してきた。その10年間では、アレン郡公共図書館本館、グランド・ウェイン会議場、フォートウェイン美術館の改築と拡張があり、変革の始まりとなった。2007年、1億3千万米ドルを掛けたハリソン・スクエア開発が始まり、新しい野球場、駐車場、アパート、小売り、ホテルが造られていった。2009年にパークビュー野球場が、2010年にホテルのコートヤード・バイ・マリオットがオープンした。2011年、利用されていなかったアンソニー・ウェイン・ビルを1,500万米ドルを掛けて50戸のマンションと小売店に転換した。市内初のライフスタイル・センターであるジェファーソン・ポイントのオープンと共に郊外部の成長は続き、2012年には5億3,600万米ドルを掛けたパークビュー地域医療センターが完成した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フォートウェイン」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Fort Wayne, Indiana 」があります。



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