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フォールン・ティンバーズの戦い(-のたたかい、英:Battle of Fallen Timbers)は、1794年8月20日に、アメリカ合衆国ジョージ・ワシントンによる北西部領土侵略に対抗して、アメリカ合衆国にインディアンが大同盟を組んで挑んだインディアン戦争。 北西インディアン戦争の行方を決した戦いであり、戦いはアメリカ合衆国軍の勝利に終り、この地域での戦闘は1811年の「テカムセの戦争」まで休戦となった。 == 背景 == 五大湖周辺のインディアン諸部族は、最強のインディアン同盟である西部五大湖同盟を組織していた。彼らは同地の入植を図るアメリカ合衆国に1790年と1791年に勝利し、ジョージ・ワシントン大統領に警告を鳴らしていた。1792年、ワシントンはアメリカ独立戦争の古参士官"マッド・アンソニー"ウェイン将軍を呼び付け、新しい軍隊を作って指揮することを命じた。 ワシントンは「インディアンは狼と同種の、生贄のけだものである」として、インディアンの存在を植民の障害と捉え、徹底した集落の破壊と虐殺を進めていた。 ウェインはインディアンに対する前の2つの遠征隊が訓練と規律が足りなかったために失敗したと信じ、活発な準備を始めた。ウェインには新しい軍隊を鍛える時間がたっぷりあったので、1793年の夏は休戦交渉が行われた。アメリカは独立戦争の勝利の結果としてイギリスから奪ったオハイオ川より北の領土の支配を確固たるものにすることを求めていた。既にアメリカの開拓者はオハイオ領土に移住を始めていた。 しかし、ショーニー族のブルージャケットとデラウェア族のバッコンガヘラスは、合衆国軍に対する最近の勝利で意気上がり、またイギリスの支援も期待して、1768年のスタンウィックス砦条約で定められたオハイオ川の境界線を死守しようとした。インディアンは、合衆国にオハイオ川の北の領土を渡すことになるその後の条約を拒否していた。モホーク族の英雄ジョセフ・ブラントらが中心勢力となったインディアンの一派が妥協の交渉を試みていたが、ブルージャケットとその同盟者は、合衆国が拒んだオハイオ川境界以外の何ものも受け入れなかった。 インディアンの部族は合議制民主主義社会であり、独任制の首長や「指導者」といったものは存在しない。また酋長は「調停者」であって、これも指導者ではない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フォールン・ティンバーズの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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