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フョードル・クラコフ : ウィキペディア日本語版
フョードル・クラコフ

フョードル・ダヴィドヴィチ・クラコフ(、ラテン文字転写の例:、1918年2月4日 - 1978年7月17日)は、ソビエト連邦政治家ソ連共産党政治局員兼書記(農業担当)。
== 経歴・人物 ==
1918年2月4日ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国フィチジ村(現在のクルスク州リゴフ地区〔英語版ではペンザ州出身となっている。〕)の農民の家庭に生まれる。1938年ルイスキー農業技術学校を卒業して、製糖工場に勤務する。1940年全連邦共産党 (ボリシェヴィキ)に入党する。1957年に通信制農業大学を卒業し、この間、タンボフ州ペンザ州で農業技師として勤務する。1955年ロシア共和国農業次官1960年ロシア共和国穀物生産相を歴任した。同年スタヴロポリ地方党第一書記に転出し、1961年には党中央委員に選出された。1965年9月最高会議幹部会議長としてブレジネフアレクセイ・コスイギン首相とトロイカを組んでいたニコライ・ポドゴルヌイの系列であったヴィタリー・チトフ書記が解任され、その後任の書記(農業担当)として書記局入りし中央委員会農業部長を兼務した。1971年の第24回共産党大会で政治局員に選ばれた。当時の共産党政治局には、クラコフの他に農業政策の専門家としては、ドミトリー・ポリャンスキー第一副首相、ヴォロノフ・ロシア共和国首相が農政の大家として控えていたが、ポリャンスキーは1973年に農相に降格の後、政治局員を解任されて失脚し、駐日大使、駐ノルウェー大使に左遷された。ヴォロノフも1973年に引退したため、クラコフはソ連農業政策の責任者となった。また、ブルガリアモンゴル共産党大会にソ連代表団を率いて訪問し、気鋭の政治家として注目されるようになった。こうして「クレムリンのプリンス」としてブレジネフの有力な後継候補としてソ連内外の耳目を集めた矢先、1978年7月17日、60歳の若さで急死した。死の3日前にモスクワで開催された国際見本市を視察したばかりだったため、その死には疑問も多く、自殺説もある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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