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フラワーパークは日本の競走馬、繁殖牝馬。1996年の高松宮杯(現・高松宮記念)とスプリンターズステークスを制し、同年のJRA賞最優秀短距離馬および最優秀父内国産馬に選出された。主戦騎手は村山明と田原成貴。 == 戦績 == 当初は1994年秋にデビューする予定であったが、予定していた初戦の直前に骨折し、6ヶ月間を休養に費やした。さらに復帰調教中に再度の骨折が判明し、デビューは予定より1年ずれ込んだ1995年の秋となった〔『優駿』1996年6月号 p.148〕。 当年の未勝利戦が終わる寸前の10月29日、新潟競馬でデビュー。村山明を鞍上に初戦は10着と敗れたが、2戦目で初勝利を挙げた。以後500万下、900万下と条件戦を連勝。明けて1996年には、1500万条件戦を2戦で勝ち上がりオープンクラスに昇格すると、続く陽春ステークスでエイシンワシントンと僅差の2着に入った。 続くシルクロードステークスで重賞に初出走する。当日は4番人気の支持を受けると、GI優勝馬のヒシアケボノ、ヤマニンパラダイス等を下し、重賞初勝利を挙げた。走破タイム1分7秒6は京都競馬場1200mのコースレコードタイ。本競走から騎手が田原成貴に替わり、以後引退まで田原が手綱を執り続けた。騎手・田原成貴、調教師・松元省一、厩務員・東郁夫という陣容はJRA顕彰馬となったトウカイテイオーの競走生活晩年と同じものである。 次走、当年より施行距離が2000mから1200mに短縮され、春の短距離王決定戦としてGI競走に昇格した高松宮杯に出走した。本競走には一貫して中長距離路線を進んできたクラシック三冠馬・ナリタブライアンが出走し、「短距離のスペシャリスト対三冠馬」という図式が注目を集めた。当日は中京競馬場の入場人員記録・7万4201人が集まった中で、フラワーパークはヒシアケボノ、ナリタブライアンに次ぐ3番人気に支持された。レースは前半600mを33秒1という早めのペースの中を3番手で先行しながら、直線で抜け出してからは後続を突き離し、2着ビコーペガサスに2馬身半の差を付けて優勝。デビューから7カ月余りでのGI制覇を果たした。走破タイムは1分7秒4のコースレコード(中京1200m)。ナリタブライアンを4着に退け、松元は「やはりスピード勝負ではこちらの方が断然上」と自信を見せた〔『優駿』1996年7月号 p.145〕(競走詳細については第26回高松宮杯を参照)。 次走・1600m戦の安田記念で9着となった後、休養に入った。秋はCBC賞から始動し、エイシンワシントンから3/4馬身差の2着。次走に秋の短距離GI競走・スプリンターズステークスを迎えた。当日は重賞で初めての1番人気に支持され、レースは逃げたエイシンワシントンをマークする形で2番手を追走。直線では逃げ粘る同馬を追い詰め、最後はほぼ同時にゴールした。12分間の写真判定の結果、ハナ差でフラワーパークが優勝。春秋短距離GI連覇を達成した。その着差は数字に換算して1cmという僅差〔『優駿』1997年2月号 p.139〕であり、田原は「一着同着でもよかったのに」と相手の健闘を讃える発言をした。なお、田原はこの競り合いに勝利するため、ゴール寸前で「ゴム毬を素早く握ると、次の瞬間膨張する」という理屈を利用した「奥の手」を使ったと語っている〔田原(1998)p.193〕。 本競走を以てシーズンを終え、翌1月には当年の年度表彰で最優秀短距離馬と最優秀父内国産馬に選出された。最優秀5歳以上牝馬選出も有力視されていたが、エリザベス女王杯を制し107票を集めたダンスパートナーが受賞し、フラワーパークは49票で次点となった〔『優駿』1997年2月号 p.16〕。 翌1997年も現役を続行、引退を予定していた田原成貴は、他に主戦騎手を務めていたマヤノトップガンと本馬に合わせる形で現役を続行した〔田原(1998)pp.197-198〕。しかし前年の勢いは失われ、連対(2着以内)も確保できない成績が続き、当年のスプリンターズステークス4着を最後に引退・繁殖入りとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フラワーパーク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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