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フランク・タシュリン(Frank Tashlin, 1913年2月19日 - 1972年5月5日)は、アメリカ合衆国の映画監督、脚本家、アニメーター、映画プロデューサーである。 == 人物・来歴 == 1913年(大正2年)2月19日、ニュージャージー州ウィーホーケンに生まれる。 1926年(大正15年)、13歳で高校をドロップアウトしてから職を転々としていたが、17歳となる1930年(昭和5年)、ポール・テリーの『イソップス・フェーブル』でカートゥーニストとして働きはじめた。ヴァン・ビューレン・スタジオでは長くは勤まらず、1932年(昭和7年)には、ワーナー・ブラザーズ内にあるレオン・シュレジンジャーのカートゥーン・スタジオにアニメーターとして入社した。やがて同スタジオを解雇され、アブ・アイワークスの動画工房に入社した。1935年(昭和10年)にはハル・ローチの撮影所に脚本家として移籍したが、さらに翌1936年(昭和11年)には、シュレジンジャーのもとに舞い戻り、アニメーションの監督となった。 第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)、パラマウント映画に移籍し、マルクス兄弟やルシル・ボール出演作品のギャグライターに転向、ボブ・ホープやレッド・スケルトン出演作品の脚本家となった。1948年(昭和22年)に執筆したノーマン・Z・マクロード監督の『腰抜け二挺拳銃』が、全米脚本家組合賞の最優秀喜劇脚本賞と最優秀西部劇脚本賞のダブル受賞を果たした。 1951年(昭和26年)には、実写の映画監督としてデビューした。1958年(昭和33年)には、前年にオリジナル脚本を執筆した自らの監督作『ロック・ハンターはそれを我慢できるか?』が、全米脚本家組合賞の最優秀喜劇脚本賞を受賞した。同作は、フランスの映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』誌上に、ジャン=リュック・ゴダールが発表した「1957年のベストテン」の3位にランクインした。4位にも、タシュリンの『底抜けコンビのるかそるか』(1956年)が挙げられている。 1972年(昭和47年)5月5日、カリフォルニア州ハリウッドで死去した。満59歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フランク・タシュリン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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