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フランコ・ロテッリ : ウィキペディア日本語版
フランコ・ロテッリ

フランコ・ロテッリ(Franco Rotelli、1942年 - )はイタリア精神科医
パルマの精神病院から始まり、1979年にいたるまでのトリエステの精神病院での活動において、フランコ・バザーリアの主要な協力者の一人であった。トリエステの精神病院改革のための実験は、後に世界中に知れ渡ることになった。また、この実験は、1978年に成立したイタリアの法律180号法(通称バザーリア法)の起草過程における重要な一時期に相当していた。同法は、病院外部の医療サービスを整備することにより、イタリアの精神病院の完全な閉鎖を確定させた。
バザーリアがローマに移り住んで以降、1979年から1995年までの間、ロテッリはトリエステの精神病院の院長を務めた。また、病院が閉鎖されてからは、トリエステ県の精神保健局の局長となった。2000年代に入ってからは、10年以上の期間にわたってトリエステ保健公社の総局長の地位にある。さらに、2013年には、フリウリ・ヴェネツィア・ジューリア州の参事および保健・社会政策委員会の議長に選出されている。
== 経歴 ==
3兄弟の末弟。長男は、10年間カザルマッジョーレという小さな町の町長を務めた。次男は、1990年代イタリアのイエズス会の管区長であった。医学全般および外科で大学を卒業したのち、ほとんどの場合において、「死体を対象とした科学」であるといえる実践的な医学よりも、「人間を対象とした医学」を志向していたことにより、精神医学を専攻するにいたった。
父ピエトロは、戦後間もない時、零細農家やポー川流域の耕作者たちのあいだに協同組合を設立した人物だった。そうした父に対する特別な関心や家族のなかの誰もが担っていた社会的な責務が、人々が備えている具体的な権利や自由に、彼の注目を向かわせる重要な役割を果たした。程なくして、こうした切迫感は、専門家としての領域において、抑圧的であり、かつ人権に対する初歩的な配慮からもしばしば程遠い精神医学との出会いを迎えることとなった。
パルマ大学の医学部を卒業すると、1969年、ロテッリは臨床神経精神医学を専攻した。彼にとっての最初の職務は、1969年の6月に得たロンバルディア州のカスティリオーネ・デッレ・スティヴィエーレという町にある司法精神病院の仕事だった。この施設で仕事に携わるなかで、彼が経験したのは、病院という治療共同体のなかとはいえ、重大な罪を犯して収容された者たちの暮らす巨大病棟を、大々的に変革することだった。そして、この改革を通して、施設内部には職員と隔離された者たちの間に集団としての責任の意識、さらに生きることへの大きな自由が生まれた。同時に、施設外部でも、監視役である司法官との間の合意に基づく毎日の夥しい数の許可を通じて、同様の意識や自由が生まれた。
こうした非常に革新的な経験を積んでいたため、当時パルマの精神病院の院長職にあったフランコ・バザーリアは、1971年、彼の医療チームの一員として仕事をさせるべくロテッリを呼び寄せた。続いて、バザーリアがトリエステに仕事場を移すと、彼はトリエステ精神病院のなかの重要な職務の責任の一端をロテッリに委ねた。そして、1973年、ロテッリは精神病院の採用試験に首席で合格を果たすことになるが、その時、彼はまだ弱冠30歳の若さであった。
1979年、バザーリアは、トリエステの精神病院院長の職を辞して、ローマへ居を移した。代わって院長職を任されたのがロテッリだった。彼はバザーリア自身の指示にしたがって、まずはトリエステ精神病院の指揮をとった。さらに、その任務が果たせるようになると、トリエステ県の精神医療サービスの仕組み全体の指揮も執るようになった。そして、1995年までの15年間もの期間、ロテッリはこの役割を担い続けた。彼の采配によって実現されたのは、精神病院が行っていたあらゆるサービスに置き換わる代替医療のサービス網だった。365日24時間オープンの精神保健センター、支援付きのアパート、家族の家、患者たちが働き手となるための社会協同組合、芸術的・文化的・演劇的な活動を行うための作業所などを設立することにより、それは実現された。
1986年には、精神保健研究・リサーチセンターが発足した。同センターは、以降、世界保健機構(WHO)の協同センターとなった。180号法は、長きにわたって様々な政治権力やイタリアの多くの地方行政から敵視されてきた。しかし、トリエステの精神保健サービスの組織こそが、同法の信頼性を担保するものとなっていくことになる。
1980年代の前半は、代替精神医療を掲げた『レゾー・インターナショナル』の書記長が、論争を煽り、また、ブラジル、アルゼンチン、ドイツ、スペイン、キューバ、ドミニカ共和国、ヴェネズエラ、ギリシャ、(旧)ユーゴスラヴィア、日本といった国々で、次々と会合を企画したことに象徴される。マニコミオや旧来の精神医学、そして誤った改革に批判を加え、また多くの国々で精神病者が見捨てられていることを糾弾しつつ、彼らはこうした活動を推進した。
1990年代の半ばになると、ロテッリは、ヨーロッパ連合から一つの任務を託された。それは、レロス島にある極めて暴力的なマニコミオ(スキャンダルそのものと言える方法でギリシャ当局によって運営されていた)を、トリエステとオランダの医療チームで改革するという任務だった。
イタリアでは、健康にかかわる全ての医療サービスの地方統轄を請け負う精神保健局が誕生した。1995年、ロテッリは、精神医療だけでなく、トリエステのあらゆる医療サービスの指揮をとる任に就いた。
1997年になるとロテッリは、イタリア-キューバの政府間協力の責任者という任務を引き受けた。同国にある精神科施設をめぐって、批判的な省察を行いながら、約1年にわたって、ハバナでキューバ当局を喚起するためのプログラムを遂行するというものだった。時同じくして、ブラジル、アルゼンチン、ドミニカ共和国において、ロテッリは世界保健機構(WHO)のプロジェクトにも関わった。
1998年になると、彼はフリウリ・ヴェネツィア州政府により、トリエステ精神保健局の総局長に任命された。さらに、2001年には、バッソリーノ(カンパーニャ州知事)州知事の招きを受けて、2004年までの期間、カゼルタ第2保健局の指揮を執ることとなった。カゼルタの保健衛生の仕組みを大々的に改革するためだった。
その後、トリエステに戻ると、2004年~2010年の期間、精神保健局の総局長を務めた。この期間には、さらに革新的で総合的な医療サービス網が組織されたが、それは地域社会における医療の起源を方向づけるものとなった。
さらに2013年になると、ロテッリは、フリウリ・ヴェネツィア・ジューリア州の参事、続いて保健・社会政策委員会の議長にも選出された。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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