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フランシス・ホール : ウィキペディア日本語版
フランシス・ホール
フランシス・ホール(Francis Hall, 1822年10月7日-1902年8月26日)は、幕末期のアメリカ人商人。冒険家、新聞の通信員として1859年に来日し、外国人居留地のアメリカの貿易商ウォルシュ・ホール商会に参加した。7年間滞在し、ニューヨーク・トリビューン紙に寄稿したほか、日本滞在日記を遺した。別名にフランク・ホール。
== 略歴 ==
1822年コネチカット州エリントンに生まれた。地方判事の父親ジョン(1783-1847)はイェール大学出の教育者でもあり、エリントンに初めての学校を作った〔House of three Charlies conceals many stories Daniella Thompson, Berkeley Daily Planet on 26 November 2008〕。父親は2度結婚しており、16人の子をもうけた。最初の妻ソフィア(1785-1829)との間に11人の子がおり、フランシスはそのうちの6番目で5男〔Hall ancestry〕。実母はフランシスが7歳のとき、最後の子を生んで間もなく亡くなったが、父親がすぐ再婚したため継母に育てられた。
父親が作った「エリントン・スクール」を1838年に卒業〔 Lynn Kloter Fahy, Arcadia Publishing, Oct 12, 2005 〕。兄がスプリングフィールド (マサチューセッツ州)に開いた本屋を手伝ったのち、1841年シラキュース (ニューヨーク州)の本屋で働き、その後同州のエルマイラで自ら本屋を始める〔。1846年にサラ・コヴェル(1828-1848)と結婚したが、2年後に妻を亡くす。知人の旅行作家ベイヤード・テイラー1855年ペリーの日本来航に同行したことに触発され〔 - 横浜開港資料館報74号、2001年〕、1858年に本屋を弟に売り、翌1859年日本へ冒険旅行に出かける。
来日後は、本屋時代に知り合ったサミュエル・ロビンス・ブラウンジェームス・カーティス・ヘボンら宣教師家族とともに神奈川宿成仏寺 (横浜市)に住んでいたが、1860年に横浜の居留地に移る〔〔『有隣』第461号、平成18年4月10日  〕。横浜居留地に店を構えるウォルシュ・ホール商会のジョージ・ホールが1862年に帰国することになり、その後任として同社に参加〔Early Experience of Contract Management in the Treaty Ports" - 1 Yuki Allyson Honjo, Routledge, Dec 19, 2013〕〔Early Experience of Contract Management in the Treaty Ports" - 2 Yuki Allyson Honjo, Routledge, Dec 19, 2013〕。ジョージとフランシスは同姓だが、親族ではなく友人〔〔開港と攘夷行動 中野昌彦「日米交流」〕。
ニューヨーク・トリビューン紙の通信員も兼ねており、貿易業の傍ら、7年間の日本滞在中に同紙に約70本の記事を配信した〔Voices of Early Modern Japan: Contemporary Accounts of Daily Life During the Age of the Shoguns Constantine Nomikos Vaporis Ph.D., ABC-CLIO, Jan 6, 2012〕。滞在日記も1859年から離日するまで書き続けた。一時期、写真も撮っていた〔高橋信一(慶應義塾大学)〕
日本で一財産を築き、1866年にアメリカに帰国。日本帰りであることから「Japanese Frank Hall」と呼ばれた。帰国後はエルマイラに戻ったが、冒険旅行を続けたと見られている〔。1902年に故郷エリントンに、父と長兄エドワード(1809-1875)を記念した「ホール記念図書館」の建設に着手したが、完成を待たずに同年に亡くなった。
兄エドワードは、父親同様、1844年にエリントンに「ホール・ファミリー・スクール・フォー・ボーイズ」という男子校を創立した教育者で、同校には、ウォルシュ・ホール商会と懇意にしていた岩崎弥太郎の弟・岩崎弥之助1872年に留学している。記念図書館建設に当たり、弥之助は2000ドルを日本コレクション整備のために寄付したが、その寄付金はジョン、エドワード、フランシス3人の顔が描かれた館内のステンドグラスの制作に使われた〔p21 Lynn Kloter Fahy, Arcadia Publishing, Oct 12, 2005〕。図書館は1903年に完成し、地元に寄贈された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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