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フランスSS突撃大隊(独:Französische SS-Sturmbataillon)は、第二次世界大戦(独ソ戦)末期ドイツ国(ナチス・ドイツ)の武装親衛隊フランス人義勇兵部隊(1945年4月末のベルリン市街戦でソビエト赤軍と交戦した武装親衛隊フランス人義勇兵1個大隊)。 1945年3月に東部戦線のポメラニアで壊滅した第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」(33. Waffen-Grenadier-Division der SS „Charlemagne“)の生存者の中で戦闘継続を希望した約300名の将兵で構成。アンリ・フネSS義勇大尉(''SS-Frw. Hstuf.'' Henri Fenet)を指揮官として1945年4月末のベルリン市街戦に参加し、ベルリン市街南東~中央部(ノイケルン区、テンペルホーフ区、クロイツベルク区、ミッテ区)における市街戦で赤軍戦車を50輌以上(資料・文献によっては60輌〔Hans Werner Neulen « An deutscher Seite : Internationale Freiwillige von Wehrmacht und Waffen-SS »(Universitas Verlag, München, 1985)p112〕、62輌〔Ernst-Günther Krätschmer « Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS » *NATION EUROPA VERLAG, 2003.※ 第5版 p927 *Edition Zeitgeschichte, 2012.※ 第6版 p782〕)撃破した。 彼らと共にベルリンに到着し、現地で戦闘中の第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」の師団長に就任したフランスSS部隊総監・元「シャルルマーニュ」師団長グスタフ・クルケンベルクSS少将(''SS-Brigf.'' Gustav Krukenberg)は戦後、ベルリン市街戦における武装親衛隊フランス人義勇兵の奮戦を次のように総括した〔。 == 背景 == === 1945年3月 「シャルルマーニュ」師団壊滅・再編成 === 独ソ戦末期の1945年3月初旬から中旬の間、武装親衛隊の第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」はポメラニア戦線で圧倒的多数のソビエト赤軍と交戦し、師団の主要な将校(初代師団長、師団参謀長、連隊長2名、大隊長多数、その他)を含む約5,000名の将兵を失って壊滅した。 ポメラニアで散り散りになった「シャルルマーニュ」師団の生存者は個人もしくはグループで行動し、それぞれ陸路や海路でドイツ本土への撤退を試みた。これらの生存者の中で最大のグループは、フランスSS部隊総監兼2代目師団長グスタフ・クルケンベルクSS少将と歴戦のフランス人将校アンリ・フネSS義勇中尉に率いられていた行進連隊第Ⅰ大隊(I Bataillon / Régiment de Marche)であった。この行進連隊第Ⅰ大隊(将兵約800名)は3月中旬にバルト海沿岸部の都市ディフェノ(''Dievenow''、現ジブヌフ(Dziwnów))経由でドイツ北部へ撤退することに成功した。 1945年3月24日、先のポメラニア戦線で大損害を被った「シャルルマーニュ」師団の生存者はノイシュトレーリッツ(Neustrelitz)に移動し、師団司令部をカルピン(Carpin:ベルリンから約90キロメートル北に位置する町村)に設置。1個連隊規模に減少した「シャルルマーニュ」師団の将兵はカルピン周辺に駐屯し、訓練や対戦車障害物建設工事に従事して時を過ごした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フランスSS突撃大隊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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