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フランソア喫茶室(ふらんそあきっさしつ)は、京都府京都市下京区にある喫茶店で、国の登録有形文化財(建造物)である。 == 歴史 == 1934年(昭和9年)に立野正一が創業した。1940年(昭和15年)に、後から購入した北隣の木造二階建ての民家を現在に残る店の姿に改築した。改築前は、明治から大正時代に建てられた京都の伝統的な町屋だった。 戦争への足跡が聞こえる中、思想や芸術について自由に語り合える場を作ろうと、創業者で社会主義者の立野正一が友人のイタリア人(京大文学部の留学生アレッサンドロ・ベンチヴェンニ)に改築を依頼した。ベンチヴェンニは建物を洋風に設計。豪華客船のキャビンをイメージした。設計はベンチヴェンニだが、施工は当時の日本の大工(日銀の内装を手がけた大工)や、家具の装飾を手がける指物師(木の道の匠)が作った。木造2階建、瓦葺、建築面積40m²。 室内には、ヨーロッパで17世紀頃に流行したバロック様式を取り入れた華やかな装飾が施され、壁や窓は色鮮やかなステンドグラスで飾られている。最大の特徴は白いドームの天井。柱は中央に膨らみのあるルネサンス調のエンタシス。その上部や店内の調度品に至るまで、華やかな彫刻が施されている。壁にはピカソや竹久夢二などの絵画が掛かる。ヨーロッパの古いランプや赤いビロードのいすなどがあり、これらは開店当初から変わらない。 店名はフランスの画家、ジャン=フランソワ・ミレーにちなんでいる。創業者の立野正一は、絵描きを目指して美術学校へ通っていた。国が軍国主義へ傾倒していくなかで、それに反発し、社会主義を啓蒙する場所として作った。思想や芸術について自由に語り合うための場所としての意味合い、思想の拠点という役割も、喫茶店にあった。立野は、志賀直哉や武者小路実篤といった自然主義文学の作家たちに影響を受けていた。その彼ら自身もバルビゾン派という画家たちの思想を受け継いでいた。そのバルビゾン派の代表格がフランソワ・ミレーで店名の由来となっている。 1936年(昭和11年)7月からは、反ファシズム新聞「土曜日」の発行を支援している。同紙の反戦・反軍国主義な論調は京都府警特高課の監視対象となり、翌1937年(昭和12年)11月の弾圧によって廃刊となった。立野ら関係者は治安維持法違反により検挙・収監されたが、喫茶店スタッフ(ウェイトレス)の一人で、後に立野の妻となる佐藤留志子が店の経営を支えた。 太平洋戦争が始まるとコーヒーを出せなくなり、店名も「純喫茶・都茶房」と変え、番茶や干しバナナを提供しながら、幸運にも戦火をくぐりぬけた。藤田嗣治や太宰治、吉村公三郎らも通った。 2003年(平成15年)1月31日付けで国の登録有形文化財(建造物)に登録された。喫茶店が登録有形文化財に登録されたのは同店が日本で初めてである。昭和の初期という時代に、和と洋を組み合わせた革新性、その後も改装されることなく建物が内部の調度品や装飾を含めて当時のままの姿で残っている点が高く評価されている。なお、今回の登録有形文化財への登録は、正面から見て右側の北側部分だけであり、南側は増築部分であるため指定されていない。この南側部分は14時以降使用される禁煙室があるが、北側部分のような重厚さがないため、「文化財としてのフランソア喫茶室」を体験したい場合は、非喫煙者でも北側部分の非禁煙室を希望する必要がある。 立野正一の死後は、妻の立野留志子が2代目店長となったが2009年10月27日に死去した。現在は立野の実子である立野純子・立野隼夫・今井香子の3兄妹が共同で経営にあたっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フランソア喫茶室」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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