|
フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー(, 1787年10月4日 - 1874年9月12日)は、フランスの政治家・歴史家、首相(在任:1847年9月19日 - 1848年2月23日)。 == 生涯 == フランス南部のニーム出身。父はフランスでも有力な弁護士であったが〔プロテスタントの家庭、にもかかわらず革新的思想を支持した。(フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ フランス革命ー世界大戦前夜 原書房 2005年 104ページ)〕、1794年、ギゾーが8歳のときにフランス革命に巻き込まれてギロチンで死刑に処せられた。このため、ギゾーは連座で処刑されることを恐れて母親とともにジュネーヴに避難する。1805年、フランスがナポレオンの時代に入るとパリに帰国して歴史学を学んだ。ギゾーが記した歴史書の著書には、『フランス文明史』や『イギリス共和国とクロムウェルの歴史』、そして『ヨーロッパ文明史』など優れた歴史書が多い。 1812年にはパリ大学(ソルボンヌ)の近世史の教授となる〔教養のあるポーリンヌ・ド・ムランと結婚し、パリの貴族階級と交流するようになった。(フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ フランス革命ー世界大戦前夜 原書房 2005年 104ページ)〕。1816年ギゾー『フランスの代議制と現行制度について』を出版する。ナポレオン失脚後、ブルボン朝が復活してルイ18世のドゥカーズ内閣のもとで閣僚になった。しかし、1820年絶対王政が復活すると、ギゾーは自由主義を唱えて過激王党派のヴィレール首相に強硬に反対したため、かえってルイ18世、そしてその後を継いだシャルル10世らの怒りを買うこととなり、大学での講義を停止させられてしまった。しかしそれでも、ギゾーは政治的に優れた人物であったため、内務省や法務省への出仕を許されている。 1830年、7月革命が起こってブルボン朝が滅亡すると、アドルフ・ティエールらと協力してオルレアン朝のルイ・フィリップを擁して七月王政を行った。ルイ・フィリップのもとカジミール・ペリエ内閣ではじめ内相、次いで1832年から1840年までは文相を務め、フランス国民に対しての教育の普及、教育法の改革を行なった〔1836年6月28日に可決。公教育の導入と初等教育の実施。第9条では「あらゆる市町村は単独で、あるいは近隣のもしくは複数の市町村と結束し、少なくとも初等教育機関を一つ備えなければならない」とうたわれている。しかし、初等教育の義務化、無償化は定めていないが、貧困層には学費の免除があった。(フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ フランス革命ー世界大戦前夜 原書房 2005年 105-106ページ)〕。さらに、この文相時代に歴史、科学研究を推進し、歴史的建造物の保護をした。 1840年から1848年まで外相を務めた。1842年からは駐イギリス大使、そして外相などを歴任し、ここにいたって事実上、七月王政の実質的な主導者として君臨することとなったのである。ギゾーは外交面においてはイギリス・オーストリアなどと友好的な政策を採ったため、フランスの国際的地位を上昇させた。しかし内政においては一部の有力資本家を支持して国民の社会的・政治的自由を抑圧し、普通選挙権においても制限を加えるなどの圧制を敷いたため、国民からの不満を招いてしまう。 1847年に首相となったが、同年に国民の間から選挙権を求めるデモが発生した。これに対してギゾーは、「選挙権が欲しければ金持ちになればいいのだ。すぐにデモを解散しろ」と言ったという。このギゾーの失言、さらにはウィーン体制打破の動きがフランスにも及んできたことなどが要因になって、1848年にフランス2月革命が発生する。革命が起こったことに怒った国王ルイ・フィリップは、その原因がギゾーの無能さにあるとして、首相を解任させられてしまう。その後、ギゾーはベルギー、そしてイギリスに亡命している。 1849年、フランスに帰国した後は政界には関わらず、歴史家として余生を送った。1874年、88歳で死去。 政治家としてよりは、歴史家としての評価のほうが高い。特に文明史においては、独自の概念に基づいた分析を行なって、歴史学を確立している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|