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フランチシェク・パラツキー : ウィキペディア日本語版 | フランティシェク・パラツキー
フランティシェク・パラツキー(František Palacký、1798年6月14日 - 1876年3月26日)は、19世紀に活動したチェコの歴史家、政治家。 チェコで流通している1000コルナ紙幣に肖像が使用されている。 == 生涯 == ホドスラヴィチェ(Hodslavice)の学校教師の家に生まれ、1812年からプレスブルクに送られ最初の教育を受ける。1823年からプラハに定住し、そこでヨセフ・ドブロフスキーと出会い、親交を深める。プラハに設立されていた民俗博物館の機関誌『国立民族博物館 Časopis Národního muzea』を1827年から発刊することになり、「ボヘミア民族を死からよみがえらせる」試みとした。1831年に文化団体「Matice česká」を設立。その頃からボヘミアのあちこちにある城館の文庫を利用して主著となる『ボヘミア史 Geschichte von Böhmen』を書き始める。 1848年の2月革命に応じてプラハで開かれたスラヴ民族会議では議長を務め、ウィーンの立憲議会に選出される。4月にはフランクフルト国民議会の準備議会にもオーストリア代表として選ばれたが、「フランクフルト議会は一度もドイツに所属したことがないチェコ人をドイツ圏内に引き入れるのを目的としている」と指摘し、招聘を辞退した。一方5月にオーストリアの文部大臣の職に就くよう要請されたが、ドイツ系住民の反発を考慮してこれも辞退している。政治家としてのパラツキーはすでに知名度が高くその去就は注目を集めていたので、スラヴ人とドイツ人の間でバランスをとらねばならなかったのだ。革命の勢いはさらに強まり5月末にはプラハで臨時政府評議会が設立され、パラツキーも参加する。ここでのパラツキーの役割は汎スラヴ主義の過激派をおさえることにあり、オーストリアを盟主とした連合国家を志向し、その国家のための憲法草案まで起草したが、6月12日に起きた非武装の急進派によるデモをきっかけとしてオーストリア当局の干渉を招き、チェコの立憲運動は中断された。その後もパラツキーは自分の影響力をチェコ文化の確立のために捧げ、終身貴族とされる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フランティシェク・パラツキー」の詳細全文を読む
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