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フランツ・ギュルトナー(, 1881年8月26日 - 1941年1月29日)は、ヴァイマール共和国、第三帝国期のドイツの政治家。ヒトラー内閣で法相を務めた。 == 略歴 == 1881年8月26日、ドイツ帝国領邦バイエルン王国のレーゲンスブルクに機関車技師フランツ・ギュルトナーの息子として生まれた。母はその妻マリア(Maria)(旧姓ヴァインツェール(Weinzierl))〔LeMO 〕。 レーゲンスブルクの学校を出た後、ミュンヘン大学に入学して法学を学んだ〔ヴィストリヒ、44頁〕。1908年にバイエルン司法国家試験に合格し、ミュンヘンで検察官として働くとともに、バイエルン王国司法省の人事部に勤務した〔。 第一次世界大戦が開戦すると西部戦線へ出征した後、パレスチナで戦った。大戦中に大尉(Hauptmann)まで昇進し、また一級鉄十字章と二級鉄十字章を受章した〔〔。 戦後は法曹界に戻り、1920年にはミュンヘンの裁判所の裁判官となる〔。1922年11月8日にバイエルン州法相に就任した〔。保守政党ドイツ国家人民党の党員であるギュルトナーは右翼犯罪者には大変同情的であった。ヒトラーはじめミュンヘン一揆で罪に問われた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党員たちにも寛大な判決を下されるよう手回しした〔。またランツベルク刑務所に収監されたヒトラーが早期釈放されるようにし、釈放後、ただちにナチ党が合法化できるよう取り計らっている〔ヴィストリヒ、45頁〕。 1932年にはドイツ国首相フランツ・フォン・パーペンからドイツ法相(Reichsjustizminister)に指名された。続くクルト・フォン・シュライヒャー内閣でも留任した〔。 1933年1月30日にナチ党党首アドルフ・ヒトラーが首相に就任した後にも彼の下で法相に留任した。ドイツ裁判官協会を国家社会主義法律家協会に合流させるなど司法のナチ化を進めた。一方で司法の独立を守ろうとすることもあり、また強制収容所での囚人の拷問やゲシュタポの無法な捜査には嫌悪感を示すこともあった〔。 しかし1935年時点ですでに法相ギュルトナーも内相ヴィルヘルム・フリックも親衛隊に対して口を差し挟むことはできなくなっており、何らの歯止め役にもならなかった〔。 1941年1月29日にベルリンで死去した〔〔ヴィストリヒ、46頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フランツ・ギュルトナー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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