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フランツ・クサーヴァー・シャルヴェンカ : ウィキペディア日本語版
フランツ・クサヴァー・シャルヴェンカ

フランツ・クサヴァー・シャルヴェンカFranz Xaver Scharwenka, 1850年2月6日 - 1924年12月8日)は、ポーランドドイツ人作曲家ピアニスト〔Xaver Scharwenka, ''Sounds From My Life: Reminiscences of a Musician'', 7〕、音楽教師である。兄のも作曲家である。
== 生涯 ==
クサヴァー・シャルヴェンカはプロイセンポーゼン管区(現在のポーランド・ヴィエルコポルスカ県、)に生まれた。彼は3歳の頃には耳で聞いた音を元にピアノを演奏するなど音楽の才能を示していたが、決して裕福な家庭ではなくピアノは独学に過ぎなかった。1865年、15歳で家族と共にベルリンへ移った彼は、兄と共にテオドール・クラクの音楽院に入学し、ピアノをツェルニー門下だったクラクに、作曲をメンデルスゾーン門下のリヒャルト・ヴュルストに師事した。
音楽院で才能を開花させたシャルヴェンカは1867年にクラク音楽院を卒業し、1868年には教員として母校に加わることになる。1869年には、ベルリン・ジングアカデミーの演奏会でメンデルスゾーンの「ピアノ協奏曲第2番」を演奏し、ピアニストとしてデビューを果たした〔。更に同年、彼の自作曲である「ピアノ三重奏曲 作品1」、「ヴァイオリンソナタ 作品2」、「ポーランド舞曲集 作品3」がドイツの楽譜出版社、ブライトコプフ・ウント・ヘルテルによって出版された。中でも作品3のポーランド舞曲集第1曲「コン・フォーコ ''Con fuoco''」は大人気を呼び発行部数は100万を記録した。この成功はシャルヴェンカにとって作曲家としての地位を得るきっかけとなった。彼は1873年に兵役に就くまで音楽院で教鞭を執り、1874年に兵役を終えるとコンサートピアニストとして演奏旅行を開始した。シャルヴェンカの演奏は音色の美しさを称賛されており、ショパン作品の解釈には定評があった〔Suttoni, ニューグローヴ世界音楽大事典 (2001), 22:339.〕。1877年には自作の「ピアノ協奏曲第1番 作品32」を初演。この曲は作曲家のフランツ・リストへ献呈されている〔。
シャルヴェンカは、1881年ヴァイオリニストの、チェリストハインリッヒ・グリュンフェルトと共同で室内楽独奏による毎年のコンサートシリーズを立ち上げ、成功を収めた。また、同年10月にはベルリンに音楽学校を創設している。1886年には、初となる管弦楽曲の一連の演奏会で指揮を行い、ベートーヴェンベルリオーズリストらの大作曲家の作品を中心に取り上げた。一方、指揮者ハンス・リヒターやヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムといった音楽家達と共に、広く演奏旅行を行い自作を披露して回った。このような、作曲・演奏・教育の3分野にわたる活動は、その後もキャリアを通して継続していくことになる〔Suttoni, ニューグローヴ世界音楽大事典 (2001), 22:439–440.〕。
1891年、シャルヴェンカは初めてアメリカへの演奏旅行を行う。ピアニストとしてはメトロポリタン歌劇場アントン・ザイドル指揮の下、「ピアノ協奏曲第1番」を演奏してデビューを飾る一方〔、ニューヨーク市にシャルヴェンカ音楽院の分校を設立した。アメリカ滞在中の1893年にベルリンの音楽院が合併によりクリントヴォルト=シャルヴェンカ音楽院となり、1898年に帰国した彼は音楽院の理事となった。1914年にW.ペツェット(Petzet)と共同で設立した音楽学校には、ピアノ教師のための学校が併設されていた〔A. Eaglefield-Hull, ''Dictionary of Modern Music and Musicians'' (Dent, London 1924).〕。シャルヴェンカ門下にはジョゼ・ヴィアナ・ダ・モッタFridtjof Backer-Grøndahl〔訳注:1885年生まれ、ノルウェーのピアニスト、作曲家。アガーテ・バッケル=グレンダールの息子。〕らがいる。著書「ピアノ奏法 ''Methodik des Klavierspiels''」は、1907年ライプツィヒで出版された〔Suttoni, ニューグローヴ世界音楽大事典 (2001), 22:440.〕。
1910年1913年にはコロムビア・レコードに録音を行っており、自作の他、ショパン、メンデルスゾーン、ウェーバー、リストの作品の演奏を遺しており〔Methuen-Campbell, James: Catalogue of recordings by classical players, Vol. 1 (1984)〕、中でもショパンの「幻想即興曲」の演奏は名高い。また、社のピアノロールには、彼の演奏でも有名なショパンの「ワルツ Op.42」と「幻想曲」が遺されている〔J. Methuen-Campbell, ''Chopin Playing from the Composer to the Present Day'' (Gollancz, London 1981), 101-2.〕。自作の「ポーランド舞曲第1番」変ホ短調 Op.3-1の演奏も、1921年にアンピコ社(Ampico)の自動ピアノに記録されている。
シャルヴェンカがこの世を去ったのは、1924年、ベルリンであった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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