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フリードリヒ・フランツ2世 : ウィキペディア日本語版 | フリードリヒ・フランツ2世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)[ふりーどりひふらんつ2せい]
フリードリヒ・フランツ2世(Friedrich Franz II., 1823年2月28日 - 1883年4月15日)は、メクレンブルク=シュヴェリーン大公国の大公(在位:1842年 – 1883年)。メクレンブルク=シュヴェリーン大公パウル・フリードリヒの長男。 1823年2月28日、パウル・フリードリヒ(当時世子)とその妃であったプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の王女アレクサンドリーネ(1803年 - 1892年)の間に第一子としてルートヴィヒスルスト(メクレンブルク=フォアポンメルン州ルートヴィヒスルスト郡)で生まれた。はじめは曾祖父のフリードリヒ・フランツ1世の宮廷で育てられた。1837年に父が大公位を嗣ぐと、彼は初めドレスデンで、ついでボンで学んだ。オランダ・イタリア旅行中の1842年に父が倒れたため急遽帰国し、3月7日の父の死去により大公位に即いた。 フリードリヒ・フランツ2世は1883年4月15日にシュヴェリーンで死去し、長男のフリードリヒ・フランツ3世が大公位を嗣いだ。 == 子女 == フリードリヒ・フランツ2世は生涯に3度結婚している。最初の妃であるロイス=ケストリッツ侯子ハインリヒ63世の娘アウグステ(1822年 - 1862年)とは1849年11月3日にルートヴィヒスルストで結婚し、以下の5男1女をもうけた。 * フリードリヒ・フランツ・パウル・ニコラウス・エルンスト・ハインリヒ(1851年 - 1897年、メクレンブルク=シュヴェリーン大公) * パウル・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ハインリヒ(1852年 - 1923年) * マリー・アレクサンドリーネ・エリーザベト・エレオノーレ(1854年 - 1920年、ロシア大公ウラジーミル(アレクサンドル2世三男)妃) * ニコラウス・アレクサンダー・フリードリヒ・ハインリヒ(1855年 - 1856年) * ヨハン・アルブレヒト・エルンスト・コンスタンティン・フリードリヒ・ハインリヒ(1857年 - 1920年、メクレンブルク=シュヴェリーン大公国摂政・ブラウンシュヴァイク公国摂政) * アレクサンダー・テオドール・ゲオルク・フリードリヒ・ハインリヒ(1859年) アウグステと死別した後の1864年7月4日、フリードリヒ・フランツ2世はヘッセン大公子カールの娘アンナ(1843年 - 1865年)とダルムシュタットで結婚した。彼女との間には以下の一女をもうけた。 * アンネ・エリーザベト・アウグステ・アレクサンドリーネ(1865年 - 1882年) アンネと死別すると、フリードリヒ・フランツ2世は1868年7月4日にルードルシュタット(テューリンゲン州ザールフェルト=ルードルシュタット郡)でシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯子アドルフの娘マリー(1850年 - 1922年)と結婚した。最後の妃であった彼女との間には以下の三男一女をもうけた。 * エリーザベト・アレクサンドリーネ・マティルデ・アウグステ(1869年 - 1955年、オルデンブルク大公フリードリヒ・アウグスト妃) * フリードリヒ・ヴィルヘルム・アドルフ・ギュンター(1871年 - 1897年) * アドルフ・フリードリヒ・アルブレヒト・ハインリヒ(1873年 - 1969年、ドイツオリンピック委員会初代会長) * ハインリヒ・ヴラディーミル・アルブレヒト・エルンスト(1876年 - 1934年、オランダ女王ウィルヘルミナ配)
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フリードリヒ・フランツ2世 (メクレンブルク=シュヴェリーン大公)」の詳細全文を読む
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