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フレグ(Hülegü, Hülägü 生没年:1218年 - 1265年)、あるいはフラグ、またはフラクは、イルハン朝(フレグ・ウルス)の創始者(在位1260年 - 1265年)。アバカ、テグデル・アフマドの父。『世界征服者史』『集史』等のペルシア語、アラビア語文献では 転写: Hūlākū Khān、『元史』等の漢語文献では旭烈兀 大王、『五族譜(''Shu'`ab-i Panjgāna'')』のウイグル文字モンゴル語表記では 'wl'kw(ulaku < 'ülegü < Hülegü) と表される。 チンギス・カンの子のトルイと、ケレイト族出身の正室ソルコクタニ・ベキの間の三男として生まれた〔『集史』トルイ・ハン紀ではトルイの(異母兄弟を含めた)五男(Rashīd al-Dīn Faḍl Allāh Hamadanī, ''Jāmi'al-Tawārīkh'', (ed.)Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsawī, vol.2, Tehran,1373/1994, p.781)、『元史』宗室世系表ではトルイ(睿宗皇帝)の六男としている(『元史』巻107/表2 宗室世系表「睿宗皇帝、十一子:長憲宗皇帝、(中略)次六旭烈兀大王」)。〕。モンケ、クビライ、アリクブケは同母兄弟であり、チンギス・カンの孫にあたる。イル・ハン Īl-khān の尊称で呼ばれた。 == 生涯 == 幼少時代については不詳であるが、1219年に早くも河南地方の彰徳路に所領を有していたようで、『元史』によれば祖父チンギスより「打捕鷹房民戸七千余戸」を分与されていたと記録されている。 1253年、兄モンケ・カアンの勅命により西征軍総司令に任命され、イラン方面総督であったアルグン・アカ以下アムダリヤ川以西の帰順諸政権を掌握し、ニザール派、アッバース朝、シリア、アナトリア、エジプト諸国を征服すべく出征した(フレグの西征)。1256年にはニザール派教主が投降、本拠地アラムート城塞が陥落。1258年には「バグダードの戦い」によってバグダードを征服、アッバース朝カリフ・ムスタアスィムを捕縛・殺害して同王朝を滅亡させた。1260年2月にはアレッポを攻略し、同年4月にはダマスクスを陥落さるなど、快進撃を続け次々と領土を広げる。 1259年に長兄モンケが没する。フレグの次兄・クビライと弟アリクブケが長兄モンケの後継をめぐって争いを始めた為、フレグはモンゴル帝国には帰還せずに中東地域(現在のイラン付近)に留まり、1260年秋にイルハン朝を建国した。 この頃ジョチ・ウルスから派遣され西征軍に従軍していた諸将・王侯があいついで謀叛・急死したため、バトゥの跡を継いだジョチ家の当主ベルケはこれを不審視し、フレグとの間に深刻な対立を生じてしまった。() 後継者争いに勝ったクビライが1264年に跡を継ぐと、フレグはクビライの大ハーン位を支持した。 フレグは当時アーザルバーイジャーン地方の州都であったタブリーズを首都と定め、アルメニアのヴァン湖近辺のアラタグ、コルデスターン州のシヤーフクーフを夏営地に、現在のアゼルバイジャン共和国のクラ川低地地域であるアッラーン地方、バグダードなどを冬営地に選定している。 また、アーザルバーイジャーン地方の古都であるマラーゲに大規模な天文台と複合施設を建造し、当時の大学者であったナースィルッディーン・トゥースィーに『イルハン天文表』を作成させている。 1265年の2月8日にマラーゲ周辺のチャガトゥーの地で没し、ウルーミーエ湖湖畔のシャーフー山に設けられた大禁地に埋葬された。同年4月にアバカが後継者として即位する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フレグ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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