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フレッド・ダンラップ
フレッド・ダンラップ(Frederick C. Dunlap、 1859年5月21日 - 1902年12月1日)は、主に1880年代に活躍したアメリカ・メジャーリーグの野球選手。主なポジションは二塁手。ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。右投げ右打ち。ニックネームは"Sure Shot"。1884年にユニオン・アソシエーションで攻守にわたってリーグ1位を独占する活躍をし、名二塁手としての名声を得た。 == 来歴・人物 == 1880年、21歳の時にクリーブランド・ブルースの二塁手としてデビュー。85試合にフル出場し、リーグ最多となる27本の二塁打を放った。2年目には監督を兼任し、戦力的に充分でなかったチームを5位ながら勝ち越しに導き、自らも.325の打率を挙げチームを引っ張る存在となったが、クリーブランドでは打撃面より守備での活躍が目立つ選手だった。 1884年にユニオン・アソシエーションが創設された際、ダンラップはセントルイス・マルーンズに移籍し、それまででは考えられないほどの打撃面での活躍を見せた。安打数 (185)、得点 (160)、本塁打 (13)、打率 (.412)、出塁率 (.448)、長打率 (.621)はいずれもリーグトップの成績を残した。ユニオン・アソシエーションにおける個人の打点数は現在も判明していないが、他の部門の成績から見て、ダンラップがこの年のユニオン・アソシエーションの「三冠王」になっていたことは充分に推察される。また同じ年の二塁手の守備記録では、刺殺数、補殺数、併殺数、守備率と4つの部門でいずれもリーグトップだった。加えてこの年の6月27日以降、ダンラップはマルーンズの監督も兼任し、75試合の指揮をとっている。 マルーンズはユニオン・アソシエーション解体後、1885年にナショナルリーグに加盟するが、この年のダンラップの打撃成績は打率.270、114安打、本塁打2と特筆すべきものはなかった。その後も打撃面での目立った活躍はなく、専ら守備面でチームに貢献する選手だった。1886年にマルーンズの経営が行き詰ると、ダンラップは4,700ドルの金銭でデトロイト・ウルバリンズに放出される。その後ダンラップはピッツバーグ・アレゲニーズ(現パイレーツ)を経て1890年のプレイヤーズ・リーグに参加、1891年を最後に選手を引退した。1902年にフィラデルフィアにて死去。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フレッド・ダンラップ」の詳細全文を読む
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