翻訳と辞書 |
フレデリック・コイエット : ウィキペディア日本語版 | フレデリック・コイエット
フレデリック・コイエット(、、1615年頃 - 1687年10月17日)は、スウェーデンの貴族。出島のオランダ商館長を2度(1度目:1647年11月3日- 翌年11月9日。2度目は1652年11月4日 - 翌年11月10日)、最後のオランダ領台湾行政長官を務めた。日本を訪れた最も初期のスウェーデン人の一人である〔中部大学人文学部教授の延岡繁によると、コイエットが日本に到着したのは1647年11月4日だが、3ヶ月前の8月8日にスウェーデン人ヨーハン・オーロフソン・ベリイ(後にナイトに叙勲されベリエンシェーナと改名)が到着している。ベリエンシェーナは後の1676年にスウェーデン海軍大将にまで昇進している。〕。 == 生涯 ==
===出島オランダ商館長=== 1643年にオランダ東インド会社の職員としてバタヴィアに到着し、同地で勤務した。日本へは商館長に任命され初めて赴任した。長崎に到着すると、恒例の江戸参府のため、1647年11月19日に長崎を出発した。12月に江戸に到着したが、ブレスケンス号の乗員の釈放に対して、いまだに感謝を表明する大使が派遣されていないこと、1647年来航のポルトガル使節にバタヴィア寄航を許したことを理由に将軍徳川家光への拝謁は許されず、また献上品も受け取りを拒否された〔 日本関係海外史料オランダ商館長日記原文編之十一 〕。 その後1649年に台湾次席を務め、同年11月20日にスウェーデンのクリスティーナ女王より爵位を与えられた。1652年に再び出島の商館長となった。江戸幕府が要求した謝礼使節は1649年に派遣されていたため、コイエットは1653年2月12日、無事に将軍徳川家綱に拝謁することができた。この2回目の出島商館長を務めていた際に、明の遺臣・鄭成功の台湾攻撃の可能性を報告しているが、バタヴィアの総督府は無視していた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フレデリック・コイエット」の詳細全文を読む
スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース |
Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.
|
|