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ブコビナ・ダルマチア府主教の邸宅 : ウィキペディア日本語版 | ブコビナ・ダルマチア府主教の邸宅[ぶこびな だるまちあふしゅきょうのていたく]
ブコビナ・ダルマチア府主教の邸宅(ブコビナ・ダルマチアふしゅきょうのていたく)はウクライナのチェルニウツィーに残る建造物群で、ブコビナがオーストリア帝国に属していた1864年から1882年にかけて、チェコ人の建築家(1831年 – 1908年)〔「ヨセフ・フラヴカ」という表記は、世界遺産アカデミー (2012) p.241による。ほかに「ヨセフ・ハラフカ」(日本ユネスコ協会連盟 (2012) p.21)、「ヨセフ・フラーフカ」(古田 (2011) p.86、市原 (2012) p.20)などという表記も見られる〕の設計で建てられた。建造物群はかつてのブコビナ府主教たちの住居や聖堂・修道院・庭園などからなり、現在はの校舎の一部として利用されている。ハプスブルク君主国が宗教寛容政策を採っていた時期に栄えた東方正教会の影響力の大きさを伝えるとともに、様々な時代の建築様式が素晴らしい形で融合した歴史主義建築の傑作であることから、2011年にUNESCOの世界遺産リストに登録された。 ==建設== ブコビナは1768年から1774年の露土戦争のあとに結ばれたキュチュク・カイナルジ条約を経て領有権が変わり、1775年からはハプスブルク君主国に併合された。モルドバ正教会のラダウツィの府主教たちの所在地が、当時チェルノヴィッツと呼ばれていたチェルニウツィーに移された。ハプスブルク家の皇帝ヨーゼフ2世はブコビナ正教会の設立にもかかわり、のちにブコビナ主教区とダルマチア主教区が合併された〔。 府主教のドシテイ・ヘレスク (Dositei Herescu) のための邸宅は、地域の軍当局によって建てられた。取り急いで1783年に完成した建物はみすぼらしい外観で、中は天井の低い小部屋に分けられ、レンガ敷きの小さな礼拝堂が付属していた。この建物は木造で〔、湿気で繁殖した菌のせいで1790年に一部が崩れ、残りも取り壊された。そのため、ヘレスクとその後継者たちは、賃貸部屋を転々とせざるをえなかった。転々とした最後の後継者になったのがエウゲニー・ハクマン (Eugenie Hacman) で、彼は1851年から1852年にリヴィウの行政庁に一連の報告書を送り、現状は府主教の待遇として威厳を損なうものであると訴えた。そこで宗教問題を管轄する省は、新しい府主教邸宅のための建築家を選出するコンテストの催行を決め、その旨の布告を出した。その結果選出されたのが、チェコ人の建築家ヨセフ・フラヴカであった〔Luceac (2008) p.79.〕〔Chuchko (2012) p.11.〕。 その設計の準備中、フラヴカはブコビナ地方の伝統的な建築を調査し、1866年には「ブコビナにおける東方正教会の建築群」という論文が専門誌に掲載されたこともあった〔Chuchko (2012) 14.〕。建造物群についてのフラヴカの提案には、府主教邸宅だけでなく、行政府、応接室、図書館、聖歌隊の学校、教会芸術の美術館、礼拝堂などを含んでいた〔Chuchko (2012) 20-21.〕。出来上がることになる建物には、ビザンティン建築や、アルハンブラ宮殿に触発されたムーア人建築の様式が組み合わさっていた〔Luceac (2008) p.80〕。 建設は1864年に始まったが〔Chuchko (2012) p.26.〕、技術的な諸問題、1872年以降のフラヴカの病気、地元の行政当局とフラヴカの確執などによって、遅延を余儀なくされた〔Chuchko (2012) pp.44-8.〕。行政当局との対立からフラヴカは辞職し、その後を引き継いだフェリクス・クシエザルスキー (Feliks Ksiezarski) の無能ぶりから、作業はさらに遅れた〔Chuchko (2012) p.50.〕。建造物と聖堂群の献堂は、1882年から1883年にかけての冬のことであった〔Chuchko (2012) p.74.〕。
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