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ブッチ・リード(Butch Reed)のリングネームで知られるブルース・リード(Bruce Reed、1954年7月11日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ミズーリ州ウォーレンズバーグ出身のアフリカ系アメリカ人。 1980年代前半は均整のとれた柔軟な肉体を持つ黒人レスラーの新鋭として、パワーとスピードを武器に南部エリアで絶大な人気を獲得。日本でも来日が待たれた「まだ見ぬ強豪」の一人だった。1980年代半ばからはラフ&パワーを主体としたヒールに転向し、ロン・シモンズとのタッグチーム、ドゥーム(Doom)などで活躍した。 == 来歴 == セントラル・ミズーリ大学を経てNFLのカンザスシティ・チーフスで短期間プレイした後、1978年に地元ミズーリ州のカンザスシティでプロレスラーとしてデビュー。以降も本名のブルース・リード名義で中西部のミズーリおよびカンザス地区に定着、1980年にはジェリー・ロバーツと組んでマイク・ジョージ&ボブ・スウィータンからNWAセントラル・ステーツ・タッグ王座を奪取している。 1981年下期より "ハクソー" ブッチ・リード("Hacksaw" Butch Reed)のリングネームで南部のフロリダ地区(エディ・グラハム主宰のCWF)に参戦。1982年2月20日、セントピーターズバーグにてドリー・ファンク・ジュニアのインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦したことから日本でも注目を集める〔『THE WRESTLER BEST 1000』P165(1996年、日本スポーツ出版社)〕。その後もフロリダではダスティ・ローデスやスウィート・ブラウン・シュガーの盟友となってベビーフェイス人気を獲得。ザ・ファンクスやデビッド・フォン・エリックとも抗争し、ブルーザー・ブロディやビッグ・ジョン・スタッドらの巨漢を相手にボディスラム・マッチを行ったこともある。ジョージア地区(ジム・バーネット主宰のGCW)ではスタン・ハンセンともタッグを組み、リック・フレアーが保持していたNWA世界ヘビー級王座にも再三挑戦した。 1983年からはビル・ワットが主宰するミッドサウス地区のMSWAを主戦場に活躍。同じく "Hacksaw" をニックネームとするヒールのジム・ドゥガンと抗争を展開するが、ドゥガンのベビーフェイス転向と入れ替わりにヒールターンを決行。以降1984年にかけて、タッグパートナーでもあったジャンクヤード・ドッグとの黒人レスラー同士による熾烈な抗争を繰り広げた。1985年はベビーフェイスに戻り、7月22日にダッチ・マンテルからミッドサウスTV王座を、10月14日にはディック・マードックから北米ヘビー級王座を奪取。バズ・ソイヤー、ディック・スレーター、カマラとも抗争し、因縁のドゥガンとのタッグチームも実現させた。 1986年に古巣のカンザスシティに戻り、再びヒールターンして黒人マネージャーのスリックと合体。ルーファス・R・ジョーンズとの抗争を経て、同年9月よりスリックと共にWWFに登場する。WWFでは "ザ・ナチュラル" ブッチ・リード("The Natural" Butch Reed)を名乗り、黒人でありながら髪をブロンドに染めるなど、スウィート・ダディ・シキをイメージしたショーマン派のヒールに変身。1987年11月26日に行われたサバイバー・シリーズの第1回大会では、当時ハルク・ホーガンと抗争していたアンドレ・ザ・ジャイアントのチーム・メンバーとなり、メインイベントでホーガン率いるベビーフェイス軍団と対戦した。翌1988年3月27日のレッスルマニアIVでは、空位となったWWF世界ヘビー級王座決定トーナメントに出場している(1回戦でランディ・サベージに敗退)。 レッスルマニア後にWWFと袂を分かち、末期のNWAジム・クロケット・プロモーションズに転出。ヒロ・マツダ率いるヒール軍団 "ヤマサキ・コーポレーション" に加入してリック・フレアーやバリー・ウインダムと共闘する。同プロがWCWに買収された1989年からは、フロリダから移籍してきたロン・シモンズとドゥーム(Doom)を結成。当初はウーマンをマネージャーに付け、黒い覆面を被ったマスクマンのタッグチームとしてロード・ウォリアーズらと抗争していた。1990年より素顔になり、テディ・ロングを新マネージャーに迎えて黒人ユニットのイメージを強化。同年5月19日、リックとスコットのスタイナー・ブラザーズを破りNWA世界タッグ王座を獲得する。 その後1991年1月にタイトル名は改称され、彼らが初代のWCW世界タッグ王者チームとなった。スティング&レックス・ルガーなどの強豪チームを相手に防衛戦を行ったが、同年2月24日、マイケル・ヘイズとジミー・ガービンのファビュラス・フリーバーズに敗れ王座を失い、シモンズと仲間割れを起こしてチームを解散。以降はベビーフェイスに転向したシモンズと各地で遺恨試合を展開する。王座転落後の3月21日にはドゥームとして新日本プロレスの東京ドーム大会に初来日し、ビッグバン・ベイダー&バンバン・ビガロと対戦したが、試合後はシモンズとの殴り合いを演じた〔『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P46(2002年、日本スポーツ出版社)〕。 1992年にWCWを離れた後は、ジェリー・ジャレットとジェリー・ローラーが主宰していたテネシー州メンフィスのUSWAでジャンクヤード・ドッグとの抗争を再開、10月12日にUSWA統一世界ヘビー級王座をJYDから奪取した。以降、1994年にはテキサス州ダラスのGWF、2000年代に入るとハーリー・レイス主宰のWLWなどに参戦し、近年もホームタウンのカンザスシティ周辺のインディー団体へのスポット出場を続けている。 WWEとは1988年以来、絶縁状態が続いていたが、2007年9月のスマックダウンで放送された旧友セオドア・ロングの結婚披露宴のスキットでは、ゲストの一人としてバックステージに顔を見せている。なお、ロン・シモンズがファルークとしてWWFでネーション・オブ・ドミネーションを結成していた際、そのメンバーに加入するという噂もあった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブッチ・リード」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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