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ブライアン・ロバート・マクブライド(Brian Robert McBride, 1972年6月19日 - )は、アメリカ合衆国イリノイ州アーリントンハイツ出身の元サッカー選手、元アメリカ代表。現役時代のポジションはセンターフォワードであり、空中戦に強い典型的なターゲットマンとして知られていた〔"McBride appears headed for England after season ends" 〕。なお、60年代から70年代にかけてアメリカ代表でMFを務めていたパット・マクブライド(en)がおり、同姓のために父親と考えられているが、ブライアンの父親の名前はマット・ジュニア(Matt Jr.)である〔"McBride's optimism plays through" 〕。 キャリアの多くをヨーロッパ、特にイングランド1部のフラムFCで過ごし、在籍中はファンから人気を集める〔"Sports Bar at Craven Cottage to be Renamed After Brian McBride" 〕だけでなく主将も務め、同クラブを退団後にフラム側は敬意を表してクレイヴン・コテージ内のスポーツバーの名前を''McBride's''に変更した〔"Fulham renames pub after Brian McBride" 〕〔"In McBride's Honour" 〕〔"McBride's" 〕。 現役引退後は、次世代の点取り屋の育成を目的とした''McBride's Attacking Soccer Academy''を設立してコーチを務めている〔。 == 経歴 == === 高校&大学 === イリノイ州アーリントンハイツに生まれたマクブライドは、バッファローグローヴ高校で学年選抜に選出される程の力を示していた。高校ではフォワードのみならずディフェンダーやゴールキーパーを務めていた〔"His Soccer Career Has Grown Too" 〕にもかかわらず、4年間で80得点、上級生時代には33得点を記録する〔"Biography" US Soccer〕得点力のある選手として知られており、また、パレード誌によるオールアメリカンにも選出された〔。下級生時代の1988年には、John Erfort監督の下でイリノイ州選手権優勝に導き〔。ウィリアムフレームド高校とのプレーオフでは前半に鼻を折る大怪我をしたものの、後半にも出場を果たして決勝得点を挙げた。スティーヴンソン高校との地域決勝戦に進出した上級生時代はゴールキーパーを務め、幾度ものペナルティーキックを防ぎぐと共にカウンター攻撃の起点ともなった。その後、隔年で新しいユニフォームを母校のサッカー部へ寄贈するとの条件でナイキとスポンサー契約を締結している〔"Brian McBride" mlssoccer.com〕。 1993年に卒業したセントルイス大学では、4年間で89試合40アシストという輝かしい記録を残す〔。在学中の1992年にはオールアメリカン2軍〔"1992 All Americans" NSCAA〕、1993年にはオールアメリカン1軍〔"1993 All Americans" NSCAA〕に選出されただけにとどまらず、グレートミッドウェスト・カンファレンスの最優秀選手にも3年間連続で選出され、さらにオールカンファレンスの1軍に選出された。その活躍からマクブライドが着用していた背番号20が2002年に永久欠番となっており、2009年にはファンの投票によって''Half-Century Team''に選出された〔"McBride Selected to National Soccer Hall of Fame" 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブライアン・マクブライド」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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