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ブラクストン・ブラッグ(、1817年3月22日-1876年9月27日)は、アメリカ陸軍の職業軍人であり、アメリカ連合国の大将になって、南北戦争では西部戦線の主要指揮官を務めた。 == 生涯 == === 生い立ちと初期の軍歴 === ブラッグはノースカロライナ州ウォレントンで〔Eicher, p. 140; Warner, p. 30; Woodworth, p. 92.〕、後のアメリカ連合国司法長官トマス・ブラッグの弟として生まれた。子供時代に母が刑務所に入っていたので、しばしば嘲弄された。1837年に陸軍士官学校を同期50人のうち5番目の成績で卒業し、第3アメリカ砲兵隊の少尉に任官された。 ブラッグはフロリダ州で第二次セミノール戦争に参戦し、テキサス州の占領にも加わった。米墨戦争では名誉ある傑出した働きを示して名誉昇進を果たし、1846年5月のブラウン砦の包囲戦で大尉、同9月のモンテレーの戦いで少佐、1847年2月のブエナ・ビスタの戦いで中佐となった。1846年6月には正規軍の大尉に昇進した〔Dubuy, p.101.〕。 メキシコでの功績によってその上官だったザカリー・テイラーに一目置かれた。 厳格なしつけが厳しい人という評判があり、規則に完全に固執する者だった。辺境基地の中隊指揮官として補給係将校も務めていたブラッグに関する有名だがおそらくは信憑性の無い逸話がある。ブラッグは自分の中隊のために物資の要求書を提出し、続いて補給係将校としてその要求を入れることを拒否した。中隊指揮官としてその要求の追加理由をつけて要求書を再提出したが、補給係将校としてその要求を再度否定した。これでは一人で手詰まりになっていることを認識し、この問題を基地の指揮官に上げた。指揮官は「おやおや、ブラッグ君、貴方は軍隊のどの士官とも喧嘩してきた。今は自分と喧嘩しているんだな!」と叫んだ。1847年8月と9月に2回、部隊兵の何人かがブラッグを暗殺しようとしたが、どちらの場合も傷つけられることは無かったと言われている。2回の試みで甚だしいのは、兵士の一人がブラッグの小屋の下に12ポンド砲弾を仕掛けて爆発させた。小屋は破壊されたが何故かブラッグはかすり傷一つ負わずに出てきた〔Woodworth, p. 92; Foote, p. 567.〕。 1856年、ブラッグはアメリカ陸軍を除隊し、ルイジアナ州チボドーで砂糖農園主となった。ルイジアナ州公共事業局の理事も務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブラクストン・ブラッグ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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