|
タンク・パットン(Tank Patton、本名:Douglas Goodwin McMichen、1946年3月23日 - 1998年12月31日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。バージニア州スタントン出身〔。生年は1949年ともされる〔『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P74(2002年、日本スポーツ出版社)〕。 鉄兜を被ったコンバット・スタイルの巨漢ヒールとして、NWAの各テリトリーで活躍した。日本での主戦場だった全日本プロレスでは、覆面レスラーのブラック・テラー(The Black Terror)に変身したこともある。 == 来歴 == 学生時代はアメリカンフットボールで活躍〔。スコット・ケーシーのスカウトでプロレス入りし〔、ビッグ・マックのリングネームでフロリダ、ジョージア、ミッドアトランティックなどを転戦〔。1974年にテネシー州メンフィスのNWAミッドアメリカ地区(後のCWA)にてダグ・パットンの名前で活動した後、ジョージ・パットンの率いたアメリカ戦車部隊にあやかったタンク・パットンをリングネームに〔、ザ・ファンクスが主宰していたテキサス州アマリロのNWAウエスタン・ステーツ地区に登場。 1976年8月、同地区からのブッキングで全日本プロレスの『ブラックパワー・シリーズ』に初来日。シリーズのエース格ボボ・ブラジルのパートナーに起用され、8月26日に札幌中島スポーツセンターにてジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦した。このシリーズでは、同じくアマリロから初来日したテッド・デビアスと組んで、グレート小鹿&大熊元司の極道コンビが保持していたアジア・タッグ王座にも挑んでいる〔。帰国後の11月には主戦場のウエスタン・ステーツ地区にて、テリー・ファンクのNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦した。 1977年はロサンゼルスのNWAハリウッド・レスリングにて、チャボ・ゲレロ、ビクター・リベラ、ザ・ハングマン、ロディ・パイパー、キース・フランクスらと抗争。1978年は4月から6月にかけてWWWFを短期間サーキット、当時アメリカに遠征していたストロング小林とも共闘し、4月25日にフィラデルフィアにて、ミル・マスカラス、ヘイスタック・カルホーン、ラリー・ズビスコのチームと6人タッグマッチで対戦。5月30日にはスクラントンにてブッチャー・バションをパートナーに、当時のWWWF世界タッグ王者のディノ・ブラボー&ドミニク・デヌーチに挑戦した。同年下期は中西部のNWAセントラル・ステーツ地区に参戦、ジェシー・ベンチュラとのコンビで9月14日にロン・スター&トム・アンドリュースからNWA世界タッグ王座を奪取している。 この間、全日本プロレスには1977年8月の再来日を経て、1978年3月に覆面レスラーのブラック・テラーに変身して『チャンピオン・カーニバル』の第6回大会に出場。開幕戦の入場式においてアブドーラ・ザ・ブッチャーに喧嘩を売り、同日に行われたブッチャーとの公式リーグ戦では両者リングアウトの引き分けに持ち込むなど〔、「リーグ戦荒らし」としての活躍を見せた〔『ゴング』1978年5月号P120-123「第6回チャンピオン・カーニバル総評」(1978年、日本スポーツ出版社)〕。ブラック・テラー名義では1980年5月にも全日本プロレスに参戦し、ザ・デストロイヤーとの覆面レスラー同士の対立アングルも組まれた(同時期、素顔のタンク・パットンとして国際プロレスへの参加も予定されていた)。 1981年にはテキサス州サンアントニオのSCW(サウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリング)に参戦、4月24日にタイガー・コンウェイ・ジュニアを破り、同団体認定のブラスナックル王座の初代チャンピオンとなった。SCWではタリー・ブランチャードやバック・ロブレイ、ケン・パテラなどと共闘し、ブルーザー・ブロディ、ワフー・マクダニエル、ボビー・ダンカン、ドリー・ファンク・ジュニア、イワン・プトスキー、マニー・フェルナンデスらと対戦。以後、1980年代前半はデビュー当時と同じビッグ・マックの名義でNWAミッドアトランティック地区に出場していた〔。 1998年12月31日、癌のため死去〔。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「タンク・パットン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|