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ブラデ・ディバッツ(英:Vlade Divac,(, ) 1968年2月3日 - )は、旧ユーゴスラビアセルビア社会主義共和国ズラティボル郡プリポリェ出身の元プロバスケットボール選手。アメリカに渡りNBAのロサンゼルス・レイカーズやサクラメント・キングスなどでプレーした。216cm,120kg。ポジションはセンター。サクラメント・キングスの球団社長を務めている。 == 来歴 == マドリードで行われた1986年バスケットボール世界選手権にユーゴスラビア代表として出場した。この大会の準決勝でソビエト連邦相手にチームは残り45秒で9点リードしていたが3ポイントシュート2本を決められ3点差、ファウルゲームを避けてパスを回して時間を費やそうとしたが残り14秒で彼のダブルドリブルによって相手ボールとなり同点の3ポイントシュートを決められオーバータイムの末敗れ銅メダルとなった。翌1987年のバスケットボール世界ジュニア選手権ではディノ・ラジャやトニー・クーコッチと共に優勝、1988年のソウルオリンピックでは銀メダルを獲得、1989年、1991年のユーロバスケットを連覇、1990年バスケットボール世界選手権を制した〔。 彼は機動力もありボールコントロールにも優れ、中距離からのシュート能力を備えている当時としては珍しいタイプのセンターであった。 1989年のNBAドラフト1巡目全体26位でロサンゼルス・レイカーズに指名されて入団し、アメリカ国内の大学でプレーしたことのない選手としてはドラゼン・ペトロビッチに続いてヨーロッパ人選手として史上2人目のNBA選手となった。当初英語のしゃべれなかった彼はチームにすぐにとけ込み、この年彼はオールルーキーファーストチームに選ばれた〔〔。 2年目の1991年にはシカゴ・ブルズとのNBAファイナルに出場したがチームは1勝4敗で敗れチャンピオンリングを逃した。 その後1996年のNBAドラフトの際、コービー・ブライアントとのトレードでシャーロット・ホーネッツに移籍し2シーズンをホーネッツで過ごした。1998年にオーナー側のロックアウトがされた際にはセルビアで2試合プレーした。その後サクラメント・キングスに加入しクリス・ウェバーやペジャ・ストヤコヴィッチと共にドアマットチームだったキングスをウェスタンカンファレンスの強豪に押し上げプレーオフの常連とした。 その後、キングスとの契約延長を望んでいたがチームとの話が進まず6シーズン在籍したキングスを退団、NBAファイナルで敗れ、シャキール・オニール、ゲイリー・ペイトン、カール・マローン、デレック・フィッシャーの退団したレイカーズに復帰した。しかし背中の負傷で彼は十分なプレーをできず、この年15試合に出場、平均9分の出場で2.3得点、2.1リバウンドに終わった。2005年7月14日に現役引退を発表した。 NBAで13,000得点以上、9,000リバウンド以上、3,000アシスト以上、1,500ブロックショット以上の成績を残している6人の選手の1人で他にこの記録を達成したのはカリーム・アブドゥル=ジャバー、ティム・ダンカン、シャキール・オニール、ケビン・ガーネット、アキーム・オラジュワンである。 2009年3月31日、サクラメント・キングス時代の背番号21が永久欠番とされるセレモニーがアルコアリーナで開催された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブラデ・ディバッツ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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