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ブラバム・BT55 (Brabham BT55) は、ブラバムが1986年のF1世界選手権に投入したフォーミュラ1カー。デザイナーのゴードン・マレーがブラバムで最後に設計したマシンである。 == 概要 == フラットボトム規定以後のF1マシンは、ターボエンジンの強大なパワーを路面に伝えるため、大きなリアウィングを装着してダウンフォースを獲得する手法を用いていた。リアウィングにクリーンな気流を当てるためには、前方にエンジンカウルなどの遮蔽物が無い方が望ましかった。また、車体の前面投影面積を減らすことは、トップスピードと燃費性能の向上につながった。 BT55の開発にあたり、設計者のマレーは徹底して車体の全高を低くするコンセプトを打ち出した。シャーシサイドはドライバーの肩が露出するほど異様に低く、ステアリングはフロントタイヤの高さよりも下にあり、ドライバーは寝そべるような格好で搭乗した。直列4気筒エンジンはV型エンジンに比べると全高が高くなってしまうので、BMWが左に72度傾いたM12/13/1エンジンを開発した。クランクシャフトが車体中央線からずれるため、ヴァイズマンが専用7速ミッションを開発した。コクピット後方の燃料タンクも横長になったので、ホイールベースが延長された。BT55の平たい特異なフォルムは「フラットフィッシュ(ヒラメ)」「ローライン」「スケートボード」などと呼ばれた。 しかし、新開発のミッションは信頼性に乏しく、エンジンもコーナリング時のGで潤滑に問題が発生するなど熟成不足によるトラブルが多発した。さらに、5月のポール・リカールテストでエリオ・デ・アンジェリスのマシンがクラッシュ・炎上し、デ・アンジェリスが死亡するという悪夢にも見舞われた。あまりの不調に第9戦イギリスGPでは、前年型のBT54が投入されるなどシーズンを通して不振に終わり、僅か2ポイントの獲得に終わった。 マレーは「完全に私のミスだった」「短時間で多くをやろうとし過ぎた」と回想している。BT55の失敗によりブラバムを去り、マクラーレンに移籍することになるが、BT55のコンセプトの正しさは2年後のマクラーレン・MP4/4で証明されたと述べ、「88年のマクラーレン (MP4/4) はマールボロの皮を被ったBT55だ〔」と表現している。MP4/4に搭載された3軸ギアボックスもマレーがヴァイズマンに開発させたものだった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブラバム・BT55」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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