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ブランコ・シカティック〔「シカティック」は英語読みであり、「シカティッチ」がクロアチア語での発音に近い)〕(Branko Cikatić、男性、1954年10月15日 - )は、クロアチア出身のキックボクサー。最終所属はドージョー・チャクリキ。 初代K-1 GRAND PRIXのチャンピオンであり、「伝説の拳」「石の拳」と言われ驚異のKO率を誇った。スイング(大きい弧を描きながら打つ大振りのフック)を得意技とし、実際に多数のフィニッシュ・ブローとなった。また右ストレート、カウンター気味のショートの左フックも得意としていた。'94 K-1 GRAND PRIX の佐竹戦には秘密兵器としてバックスピンキックも用意してきた。ファイトプランの特徴として3round制でも5round制でも、必ず勝負ポイントに自分からプレッシャーをかけ倒しに行った。この圧力は相当なものでチャンプア・ゲッソンリット、佐竹雅明、アーネスト・ホースト、アンドレ・マナートといった強豪が軒並みKOされており、特にホーストに対してはK-1以前の試合も含めると3戦して全勝している。 ミルコ・クロコップの師匠であったが、壮絶な喧嘩の末仲違いをしている。シカティックによるとミルコ側の人間に襲撃されそうになったこともあるという。 元軍人で、クロアチア紛争にも参加したという異色の経験を持つ。 == 来歴 == 1993年4月30日、K-1 GRAND PRIX '93に参戦。既に38歳であったが、1回戦でチャンプア・ゲッソンリット、準決勝で佐竹雅昭、決勝ではアーネスト・ホーストをそれぞれKOで破り、初代K-1王者となった。 1994年12月10日、K-1 LEGEND 乱で自身の引退試合(引退の理由は衰えなどではなく、当時のクロアチア独立戦争に参加するため)を行い、アーネスト・ホーストと1年8か月ぶりに再戦。KO勝ちで返り討ちにし、引退を飾った。また、シカティック本人が、自身のベストバウトとして、この試合を挙げている。引退後は予定通り、クロアチアの特殊コマンド部隊教官として、スポーツ選手で構成された部隊を率いて、戦場に出た。 1997年3月16日、K-1 KINGS '97で現役復帰し、ムサシ(現・武蔵)にKO勝ち。同年7月20日、K-1 DREAM '97でサム・グレコに生涯初のKO負け。この試合でシカティックは立ったまま失神した。グレコによるラビットパンチ(後頭部へのパンチ)があったとインタビューで答えている。「チャクリキに痛いという感情はない」という自身の言葉を実証した形になった。 1997年9月7日、K-1 GRAND PRIX '97の1回戦でマイク・ベルナルドと対戦する。1ラウンド開始直後にお互いに打ち合いに行った際、ベルナルドとシカティックの額が当たり、そのままベルナルドの連打を浴びて倒れる。一旦試合が止まりシカティックの額の傷の深さからドクター、レフリーが試合を止めTKO負けとなる。石井和義K-1プロデューサーがリングのエプロンでマイクを握り客席に向かって説明を行った。以降シカティックはK-1のリングには上がっていない。 1997年10月11日、総合格闘技PRIDEに参戦。PRIDE.1でラルフ・ホワイトと対戦。グラウンド状態のホワイトにシカティックのキックが当たり、「ノーコンテスト」となった。 1998年3月15日、PRIDE.2でマーク・ケアーと対戦。ケアーのタックルに倒されないようにロープ掴みと後頭部への肘打ちを連発し、反則負け。ホイス・グレイシーの欠場による緊急参戦であった。 1999年9月12日、PRIDE.7でモーリス・スミスと対戦。1Rギロチンチョークで一本負け。 2005年7月18日、WORLD OYAZI BATTLE -SAMURAI RETURN!-で金山裕文と対戦し、1-0の判定ドローとなった〔WORLD OYAZI BATTLE -SAMURAI RETURN!- 第9試合 スポーツナビ〕。 現在は母国クロアチアで警備会社「タイガー・シカティック」の代表取締役として、クロアチアの要人(大統領や大臣)の警護などを業務とする会社を経営している。また、日本クロアチア協会の常任理事も務めている。その一方で、M-1という格闘技イベントを主催しており、時折試合に出場することもある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブランコ・シカティック」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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