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ブランチ・リッキー
ブランチ・リッキー(Wesley Branch Rickey , 1881年12月20日 - 1965年12月9日)は、アメリカ合衆国オハイオ州出身の元プロ野球選手(捕手)・監督・プロ野球球団経営者。 マイナー組織の改革や初のアフリカ系アメリカ人選手ジャッキー・ロビンソンと契約を結んだ等、革新的なメジャーリーグ球団幹部であったことでよく知られている。ファーム制度や科学的なトレーニングの導入でも有名である。"The Mahatma"(マハトマ・ガンディーになぞらえたもの)のニックネームで呼ばれた。大卒後、弁護士業を数年行っていた。 == 来歴・人物 == 1903年にシカゴ・ホワイトソックスと契約するが、ホワイトソックスではメジャーでの出場はなく、1905年6月にセントルイス・ブラウンズ(現:ボルチモア・オリオールズ)にトレードされ、ブラウンズでメジャーデビューを果たす(デビュー戦では3打数ノーヒット)。選手としてはそれほど芳しい成績を残していない。1914年にブラウンズで2試合に出場したのがメジャーでの選手歴の最後で、その後はブラウンズの監督として活動することとなる。 引退後は監督としてブラウンズに残留したが(1914年は選手兼任監督)、1915年オフに解雇された。1919年にセントルイス・カージナルスの監督に就任すると1921年に若き二塁手、ロジャース・ホーンスビーらを擁してチームを4年ぶりの勝率5割以上に導き、1923年まで勝率5割を維持した。その後、1924年には再び勝率4割台に戻ってしまい、1925年にはホーンスビーがプレイングマネージャーとなり監督業からも離れることになる。翌1926年にカージナルスは初のワールドシリーズ出場を果たし、シリーズを制覇した。それから後、リッキーが監督として球界に戻ってくることはなかった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブランチ・リッキー」の詳細全文を読む
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