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エドマンド・チャールズ・ブランデン(Edmund Charles Blunden, 1896年11月1日 - 1974年1月20日)は第一次世界大戦の従軍体験を題材にした詩で知られるイギリスの詩人・文芸評論家。 ==経歴== ロンドンに生まれたブランデンは、4歳のときに教師をしていた父の転勤で、ケント州のヨールディング村に転居、当地で12歳までの幼少期を過ごしている。1909年、ブランデンは、400年の伝統を誇るパブリック・スクール、クライスツ・ホスピタル(Christ's Hospital)に入学、古典を専攻したブランデンはラテン語を学ぶ日々を過ごす一方で、クリケットやラグビーにも熱中、文武両道というにふさわしい学生生活を送っていたという。 第一次世界大戦勃発の翌年にあたる1915年、クライスツ・ホスピタル校を卒業したブランデンはオックスフォード大学ザ・クイーンズ・カレッジの奨学金を獲得後、ロイヤル・サセックス連隊に志願、イープルの戦いやソンムの戦いなどに従軍し、その勲功により、ミリタリー・クロスを受章している。ブランデンの戦争体験は、数々の戦争詩という形で文学的に結実し、特に1928年に発表された散文、『大戦微韻』(Undertones of War)はブランデンの従軍体験を題材にした作品でもっとも世に知られたものとなっている。彼の戦争詩はジーグフリード・サスーンやウィルフレッド・オーエンのそれとは異なり、戦場の生々しい描写というよりは戦場の風景を描いた作品が多いのが特徴といえよう。 大戦終結後、ブランデンは大学に復学、大戦中に結婚した妻との新婚生活に、この頃知り合った詩人ジーグフリード・サスーンやロバート・グレイヴズらとの交友などブランデンは多忙な日々を過ごす。やがて詩人としての才能も認められるようになり、かつ結婚生活を維持していくための経済的必要性に迫られたブランデンは大学を中退、文芸誌の編集に携わるようになる。1922年にホーソーンデン賞を受賞、1924年には来日して東京帝国大学で3年間に渡って英文学を講じており、中野好夫らがブランデンの薫陶を受けた。ブランデンと日本との絆は深く、戦後になってからも1947年-1950年にかけて日本に滞在、仙台文学館、松島の新富山、倉敷、広島などにブランデンの歌碑が建てられている他、近年では滞日中に知り合った日本人女性、林アキ (1889年-1962年) との関係にも光が当てられつつある。 1931年、ブランデンはオックスフォード大学のマートン・カレッジの研究員に就任、1944年までこの職を務めている。1967年から翌年までは香港で英文学を講じ、その後はオックスフォードに戻り詩学教授を務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エドマンド・ブランデン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Edmund Blunden 」があります。 スポンサード リンク
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