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ブリュン綱領[ぶりゅんこうりょう] ブリュン綱領(ブリュンこうりょう / 独:Brünner Programm)は、1899年9月29日、オーストリア社会民主党(正確には「オーストリア社会民主労働党」)のブリュン党大会で採択された、同党の民族問題に関する綱領である。「ブリュン民族綱領」とも称する。 == 概要 ==
19世紀末のオーストリア=ハンガリー帝国はドイツ人のほかハンガリー人・チェコ人・ポーランド人・イタリア人・南スラヴ人(クロアチア人・スロベニア人)などから構成され、かつこれらの民族集団がモザイク状に入り交じって居住している多民族国家であり、こうした状況を反映して社会民主党も「小インターナショナル」と称される多民族的な構成を取っていた。1897年のバデーニ言語令をきっかけに国内の民族問題が紛糾し、また諸民族の運動に社会主義思想が浸透すると、党独自の民族政策を確立することが迫られるようになった。しかし当時の同党の綱領(1889年1月のハインフェルト創立大会で採択されたハインフェルト綱領)は、国際主義を前面に出した内容で、民族問題についての政策は不明確なままであった。そのような事情もあって党内ではドイツ人の優位を主張するドイツ系の民族主義者や厳格な国際主義者たちが少数民族(特にチェコ人)への譲歩に異議を唱えるような状況が横行していた。 その後、1897年のヴィンベルク党会議により、社会民主党はドイツ系・チェコ系・ポーランド=ウクライナ系・イタリア系・南スラブ系(スロベニア系)の民族別の党による連合組織へと再編された。そして1899年9月、ブリュン(ドイツ語での地名。現在はチェコのブルノ)で開催された党大会により、本格的な(社会主義政党としては世界初とされる〔田口晃、p.141。〕)民族綱領が採択されることになったのである。この綱領は当初「文化的自治」(文化的=民族自治)論を前面に出す内容となっていたが、民族運動に妥協した結果、カウツキーやV・アードラーの主張をベースに、立法・行政組織としての「自治的地域」の上に「民主的な諸民族の連邦」を構想する内容となった〔良知力「オーストリア・マルクス主義」、鈴木是生「帝国の解体と民族自決論」。〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブリュン綱領」の詳細全文を読む
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