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ブルハーヌッディーン・ラッバーニー(ダリー語:、1940年 - 2011年9月20日)は、アフガニスタンの政治家。タジク人。イスラーム主義系政治組織の最高指導者。初代アフガニスタン・イスラーム国大統領(在任:1992年 - 2001年)〔ただし、ラッバーニーが大統領を務めたアフガニスタン・イスラーム国は次のような変遷をたどった。 * 1992年 - 1996年は統一政権。 * 1996年 - 2001年はターリバーン政権(アフガニスタン・イスラム首長国)と併存した北部同盟(アフガニスタン救国・民族イスラーム統一戦線)政権。 * 2001年11月13日のターリバーン政権の崩壊にともない、統一政権に復帰。 * 2001年12月5日のボン合意にともなって設立されたアフガニスタン暫定行政機構(ハーミド・カルザイ議長)に政権を譲り渡す。〕。日本ではブルハヌッディン・ラバニと表記されることもある〔。 == 生涯 == === 大統領就任まで === 1940年(1942年とも)、ムハンマド・ユースフの息子としてバダフシャーン州ファイザバードに生まれる。地元の学校を卒業後、カーブルのアブ・ハニファ神学校に進んだ。同校を終えた後、イスラム法とイスラーム法学を学ぶために、カーブル大学イスラーム法学部に進学した。在学中に優れた学徒として知られるようになった。1963年に卒業すると、そのまま同大学の講師として迎えられた。さらに学問を究めるために、カイロのアル=アズハル大学に留学し、イスラーム哲学の修士号を取得した。1969年にはトルコのアンカラ大学にも3ヶ月間留学した。 1968年、アフガニスタンに帰国したラッバーニーは、ジャマーアテ・イスラーミーの理事会から大学生の組織化を命ぜられたが、早くも1972年には、イスラームに関する深い学識、人望、活発な宗教活動を認められ、15人で構成される理事会によってジャマーアテ・イスラーミーの最高指導者に選出された。 1974年春、このような活動が時のダーウード政権によって目をつけられ、逮捕されそうになるが、学生の手引きによって難を逃れて地方に身を潜めた。後にパキスタンに脱出。1970年代末から本拠地をイランのマシュハドに置き、アフガニスタン人民民主党に対する闘争を開始。1980年7月から再びパキスタンを本拠地とした。同拠点から、ジャミアテ・イスラーミーのムジャーヒディーンによるソ連・アフガン戦争を指揮した。1989年から1992年、ペシャーワルの亡命政権の外相を務めた。ラッバーニー派は、1992年にカーブルへ最初の入城を果たしたムジャーヒディーン部隊となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブルハーヌッディーン・ラッバーニー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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