|
ブロケードは日本の競走馬。第41回桜花賞の優勝馬。巴賞におけるハギノトップレディとの名勝負でも名高い。主戦騎手は柴田政人で、すべてのレースで手綱をとった。馬名の意味のブロケード (brocade) とは、サテン地に浮き模様を織り出した織物(もともとは絹織物)のこと。この織物で金襴緞子(きんらんどんす、金箔を織り込んだ織物のこと)もよく作られることから、オーナーが金襴緞子をブロケードと勘違いして付けたようである。ちなみに半妹にジャカード(父:サンシャインボーイ)がいるが、この名前も織物の名前である。 ※馬齢は旧表記(数え年)で統一する。 == 戦績 == 1980年8月に函館競馬場でデビュー。1000メートルの新馬戦を2着に7馬身差をつけて勝利したが、レース後軽度の骨折が見つかり、大事を取って半年間休養することとなる。 明け4歳となり、復帰戦となったダートの自己条件戦を久々のレースながら逃げ勝ち、桜花賞トライアルの4歳牝馬特別に出走する。京成杯3歳ステークスの勝ち馬タケノダイヤに人気が集中していたが、レースは2着のアグネステスコに6馬身差をつけてブロケードが勝利。3戦無敗で桜花賞に臨んだ。この年の桜花賞は、いわゆる「田んぼのような」不良馬場で行われ、長く降り続いた雨の影響で桜もまだ開花していなかった。前走で重馬場を克服していることもあり、ブロケードは1番人気に推された。レースでは無理に逃げることなく、3番手を追走。4コーナーで先頭に立つと、そこからは独走。追い込むテンモンに3馬身半差をつけ優勝を果たした。実況の杉本清は、「金襴緞子が泥にまみれてゴールイン!」という名調子でこの勝利の模様を伝えた〔鞍上の柴田は「馬場のいいところを走ったので、泥はかぶらなかった」と後年振り返っている〕。 続いて、二冠を目指し優駿牝馬に出走したが、距離延長への不安から4番人気という評価で、レースでも直線半ばで失速し、テンモンの13着という結果に終わった。優駿牝馬の後は、夏の目標を函館記念に定め、短期休養後の前哨戦として巴賞に出走する。前年の桜花賞馬ハギノトップレディも登録していたこともあり、新旧桜花賞馬対決として、レース前からファンの注目を集めていた。ブロケードは、斤量が55キロとハギノトップレディの59キロに比して斤量面では恵まれていたが、逃げ比べでは及ばないと見られ、3番人気に過ぎなかった。レースは、ハギノトップレディが1000メートルを57秒3というハイペースで逃げ、ブロケードは2番手で折り合いをつける。3コーナー手前で、ハギノトップレディがペースを落とした隙を見計らい一気に先頭を奪うと、4コーナーではハギノトップレディに1馬身差をつけた。ここまでは、柴田の作戦通りの理想的な展開だった。 しかし、この後ハギノトップレディがブロケードの外に出ると猛然と追い込んで馬体を併せ、ゴールまで激しい競り合いが続いた。勝敗は写真判定に持ち込まれたが、ブロケードがアタマ差及ばなかった。この後は、予定通り函館記念に出走するも、同じ4歳のホーワセキトに4馬身差の2着に終わった。 秋は、牝馬東タイ杯から始動。牝馬限定のマイル戦では敵は無く、1番人気に応えた。続いて、エリザベス女王杯に向かうも距離の壁は厚く、アグネステスコの13着に終わった。この後は、短距離戦を中心に走ることとなり、CBC賞を2着として4歳シーズンを終える。 翌1982年の初戦は、2月のスプリンターズステークス。前年の同レースの覇者であるサクラシンゲキを1馬身4分の3抑えて快勝した。古馬となっての勝利は結局このレースだけだったが、これは、当時の短距離戦はハンデ戦が多くブロケードの実績では重い斤量を背負わざるを得なかったことや、レース体系が未整備で目標となるレースが少なかったことが影響している。この後、ブロケードは6歳まで走り、掲示板を外したのは13戦中わずか3戦という高い安定感を見せ、早熟傾向が強い桜花賞馬としては珍しく息の長い活躍をした。なお、総獲得賞金2億3997万6200円は当時の牝馬最高獲得賞金記録であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブロケード」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|