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ブーランジェ将軍事件[ぶーらんじぇしょうぐんじけん]
ブーランジェ将軍事件(ブーランジェしょうぐんじけん)とは、第三共和政治下のフランスで1886年から1889年にかけて起こった、反議会主義的・反共和主義的政治運動である。ブーランジェ事件、ブーランジェ運動、またはブーランジスムとも呼ばれる。 ==事件直前のフランスの情勢== 普仏戦争の敗北によって課せられた賠償金〔50億フラン。1871年に締結されたフランクフルト講和条約による。締結以後3年以内に完済することが求められた。この締結は第三共和政が成立する以前のものであるため、第三共和政政府自身は債務を背負うことに積極的でなかった。が、国力の回復に伴って賠償金自体は期限満了前に完済した。愛国心に燃える国民が、公債応募に対して並々ならぬ熱意で応じたためである。〕及び一大鉱業地帯であるアルザス・ロレーヌ地方の喪失のために、フランスの国民感情はドイツに対する敵愾心が高まっていく傾向にあった。また、1882年に起こった金融恐慌のために、それまで上昇傾向であった景気が低迷し、工業生産はアメリカ・ドイツ〔ドイツの工業生産力が増大した理由のひとつが、石炭や鉄鉱石を産出するアルザス・ロレーヌ地方(ドイツ名:エルザス・ロートリンゲン)にあることは言うまでもない。〕に抜かれて世界第4位に転落する有様であった。また、帝国主義による植民地支配は拡大し、外債によって対外投資が増大するという問題点もあったことに加えて、ドイツでは時の宰相であるビスマルクがフランスを孤立させる外交方針を展開していた(ビスマルク体制を参照)ことから、対独ナショナリズムの高揚と強い政府を求める声が主張されていた。 しかしながら当時の多党連立政権は明確な対策を打ち出すことができず〔政府内部にも最右翼アドルフ・ティエールから急進左翼レオン・ガンベタまで幅広い党派があり、統制が困難であったことも理由のひとつである。〕、与党に対抗すべき社会主義政党も離合集散を繰り返しており広範の支持を得ることはできていない状況であった。一方王党派はブルボン朝支持派とオルレアン朝支持派の間に対立があり、こちらもまとまりを欠いていた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブーランジェ将軍事件」の詳細全文を読む
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