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ブーンビルの戦い(ブーンビルのたたかい、)は、南北戦争初期の1861年6月17日、ミズーリ州クーパー郡で起こった小戦闘である。この戦いで北軍が勝ったことにより、ミズーリ川を支配し、ミズーリ州が南軍側に付こうという動きを止めた。 == 背景 == ミズーリ州の南部寄り知事であるクレイボーン・F・ジャクソンは、ミズーリ州を合衆国から脱退させてアメリカ連合国への加盟を望んだが、州内全体の民衆感情は当初中立だった。選出された州の会議ではジャクソンが望んだ脱退条例を通すことはなかった。 一方、脱退推進派の集団がミズーリ州リバティの小さな武器庫を占領し、セントルイス武器庫でさらに多くの武器を捕獲しようと計画した。彼等は活力ある若い士官、ナサニエル・ライアン大尉に阻止された。ライアン自身は、反奴隷制論者でセントルイスのドイツ系移民である地元の政治家フランク・ブレアと同調し、武器庫を確保した。この過程の1861年5月10日、ライアンは主にドイツ系移民の北軍民兵隊を使って、キャンプ・ジャクソンの近くで訓練していたミズーリ州兵隊を捕獲した。ライアンが無分別に捕虜達をセントルイスの通りを通って武器庫まで行進させているときに、破壊的な暴動が起こった。このことが州内の表面下にあった南部寄り感情に火をつけた。ライアンの行動の結果、ミズーリ州議会は即座にミズーリ州兵隊を作る知事の民兵法案を成立させ、古い民兵隊を核に結成を始めた。 ミズーリ州は脱退を思い留まっていたので、意見の違いを調停する試みが行われた。最初の州兵召集は議会によって止められた。しかし、その間にライアンはミズーリ州兵隊の准将に指名され、州内の指揮に就いた。6月11日、どちらの側も相手を信用できなかったので、協議は物別れとなった。 ジャクソン知事と州兵の指揮官スターリング・プライスは州都のジェファーソン市に向けて逃亡し、6月12日にそこに着いた。彼等は直ぐにジェファーソン市を保持できないと結論付け、翌日にはブーンビルに向かった。 ライアン将軍は即座に北軍2個志願兵連隊、アメリカ陸軍正規兵1個中隊および1個砲兵大隊、総勢約2,000名を蒸気船に乗せて彼等の後を追った。その目標は州都を掴むことであり、ミズーリ州兵隊を追い払うことだった。ライアン軍は6月15日にジェファーソン市に到着し、ジャクソンとプライスがブーンビルに向けて撤退したことが分かった。 プライスはジェファーソン市が防衛できないことを認識し、レキシントンとブーンビルから州兵を集めるための十分な時間が欲しいと思った。ライアンが接近してくればブーンビルからも撤退する考えだった。州兵のジョン・S・マーマデューク大佐がブーンビルで部隊の組織化を始める一方で、モスビー・M・パーソンズ准将は20マイル (32 km)南のティプトンで陣地を構築するよう指示を受けた。 プライスは病気のためにブーンビルを離れ、レキシントンで集められている軍隊に加わった。このことは、政治家である知事に指揮させるという不幸なことになった。ジャクソンは撤退する代わりに、これ以上撤退した場合の政治的な悪影響を恐れたので、町を守ることに決めた。彼の部下の兵士達も敵と対峙することに熱心であったが、兵士達はショットガンやライフルで武装しているだけであり、効果的に戦うための十分な訓練も受けていなかった。マーマデュークは戦うことに反対だったが、この待機する軍隊の指揮に渋々就いた。 ライアンはジェファーソン市を確保するために300名の北軍を残し、6月16日に再度残りの部隊を蒸気船に乗せた。この部隊は6月17日の朝にブーンビルの下流約8マイル (13 km)の地点で上陸した。ジャクソンはライアン軍が接近していることを知らされ、ティプトンにいるパーソンの部隊を呼び寄せようとしたが、この部隊は間に合わなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブーンビルの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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