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プティクーディアク川方面作戦(プティクーディアクがわほうめんさくせん、Peteicodiac River Campaign)〔英語ではPetitcodiacだが、元々はフランス領であるため、フランス語の綴りPetitcoudiacに従って表記している。〕は、フレンチ・インディアン戦争中の1758年6月から11月にかけて、イギリス軍が行ったアカディア人追放作戦である。プティクーディアク川の流域に住んでいたアカディア人、サンジャン島方面作戦のような、かつての追放を逃れて住みついていたアカディア人が対象となった。ベノニ・ダンクスと、ジョセフ・ゴーラムのが作戦を遂行した。 ==歴史的背景== 1710年にポートロワイヤルの戦いが起きてから45年の間、アカディア人はイギリスへの絶対的忠誠の誓文への署名を拒み続けていた。また、ダートマス奇襲のように、イギリスに対抗して民兵が様々な活動を起こし、一方でルイブールやボーセジュール砦といった、フランスの砦へ重要な補給業務を請け負っていた〔John Grenier, Far Reaches of Empire: War in Nova Scotia 1710-1760. Oklahoma University Press. 2008〕。フレンチ・インディアン戦争期間中、イギリスは、彼らにとって脅威であるアカディアの兵力を無効にしようと努め、また、追放されたアカディア人によるルイブールへの補給線維持を、阻止しようとした〔Stephen E. Patterson. "Indian-White Relations in Nova Scotia, 1749-61: A Study in Political Interaction." Buckner, P, Campbell, G. and Frank, D. (eds). The Acadiensis Reader Vol 1: Atlantic Canada Before Confederation. 1998. pp.105-106〕〔Stephen Patterson, Colonial Wars and Aboriginal Peoples, p. 144.〕。 ロワイヤル島(現在のケープ・ブレトン島)で1758年にルイブールの戦いが起こった後、アカディア人はサンジャン島(プリンス・エドワード島)現やロワイヤル島を去って、本格的にニューブランズウィックに移動した。この年は2度目の追放作戦であるサンジャン島方面作戦も行われた。ある歴史家によれば、この作戦は前のよりもかなり残忍かつ冷酷なものであった〔John Faragher, p. 403〕。 プティクーディアクは2つの小さな川、シェポディ川とメムラムクック川(トロワリビエールと地元で呼ばれる3本の川の内の1つ)に挟まれた場所に位置している。1755年、ファンディ湾方面作戦の1週間後、イギリス軍はプティク―ディアクの戦いでチプーディとヒルズバラの集落を襲った。同じ1755年の11月にイギリス軍は、この地域の残りのアカディア人を拘留し、200頭の家畜を殺した〔John Grenier, p. 184〕。 1757年の9月10日、の大尉ジョン・ノックスは、命令を受け、レンジャーズと正規兵の800人の混成軍と合流して、チプディに向かった。この場所はアカディア人とミクマク族のシグネクト攻撃の拠点となった場所だった〔Grenier, p. 191〕。そのほぼ7箇月後、1758年3月28日に、ゴラム率いるレンジャーズがチプディを攻撃したが、そこには女子供しかいないのに気づいた。男たちはカンバーランド砦に向かって、そこでスクーナーを攻撃したのだ〔Grenier, p. 195〕。レンジャーズは、彼らの前回の襲撃からの立ち直りの速さに驚いた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「プティクーディアク川方面作戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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