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プブリウス・テレンティウス・アフェル(Publius Terentius Afer, 英語:Terence, 紀元前195年/紀元前185年 - 紀元前159年)は共和制ローマの劇作家。テレンティウスの喜劇が最初に上演されたのは紀元前170年から紀元前160年頃である。若くして亡くなったが、その場所はおそらくギリシャ、もしくはローマへ戻る途上だろうと言われている。 テレンティウスは、元老院議員テレンティウス・ルカヌスによって奴隷としてローマに連れてこられた。ルカヌスはテレンティウスに教育を施し、その才能に感心して後には奴隷から解放した。「テレンティウス」というノーメン(氏族名。古代ローマの人名参照)は、テレンティウス・ルカヌスからつけられたものである。テレンティウスの書いた6つの戯曲はすべて現存している。 ==生涯== テレンティウスの生年月日については諸説がある。アエリアス・ドナトゥス(:en:Aelius Donatus)は未完の『Commentum Terenti(テレンティウス注釈)』の中で、テレンティウスの生年を紀元前185年としている〔''Aeli Donati Commentum Terenti, accedunt Eugraphi Commentum et Scholia Bembina'', ed. Paul Wessner, 3 Volumes, Leipzig, 1902, 1905, 1908.〕。一方、フェネステラ(:en:Fenestella)はそれより10年早い紀元前195年だと主張している〔G. D' Anna, ''Sulla vita suetoniana di Terenzio'', RIL, 1956, pp. 31-46, 89-90.〕。 テレンティウスの生地はカルタゴか、あるいは生まれはギリシア・イタリアで、奴隷としてカルタゴに連れて行かれたのだと思われる。いずれにしても、テレンティウスの第三名「アフェル」は、奴隷としてカルタゴからローマに連れてこられたことを暗示している〔Tenney Frank, "On Suetonius' Life of Terence." ''The American Journal of Philology'', Vol. 54, No. 3 (1933), pp. 269-273.〕。「アフェル」という名前は共和政ローマの時代には二つの違う意味に使われていたが、テレンティウスの時代には、カルタゴを含むアフリカのリビア一帯の人間を指していたからである。もっとも146年の第三次ポエニ戦争以降は、カルタゴ人を指す名前は「プニカス(Punicus)」で、「アフェル」はカルタゴ人以外のアフリカ人を指すようになった〔H. J. Rose, ''A Handbook of Latin Literature'', 1954.〕。古代リビア人(:en:Ancient Libya)〔Michael von Albrecht, ''Geschichte der römischen Literatur'', Volume 1, Bern, 1992.〕またはベルベル人の家系〔Suzan Raven, ''Rome in Africa'', Routledge, 1993, p.122; ISBN 0415081505から、「……2世紀に元老院議員の奴隷としてローマにやってきた劇作家テレンティウスはベルベル人だった」〕だった可能性もある。 いずれにせよ、テレンティウスは6つの戯曲を書いた後、25歳でローマを離れたが、二度とローマに戻ることはなかった。古代の著述家の何人かはテレンティウスは海で亡くなったと言っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「プビリウス・テレンティウス・アフェル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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