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プファルツ家 : ウィキペディア日本語版
プファルツ家[ぷふぁるつか]

プファルツ家()は、ヴィッテルスバッハ家のうちドイツプファルツ地方を治めていた一門のことを指す。上バイエルン公ライン宮中伯ルドルフ1世を始祖とし、その息子ループレヒト1世は選帝侯位を獲得し、曾孫のループレヒト3世神聖ローマ皇帝(正しくはドイツ王)に選出されている。ループレヒトの息子によって一族の分枝が形成され、その中でズルツバッハ家カール4世フィリップ・テオドールバイエルン家が断絶したことでバイエルン選帝侯位も継承し、続くビルケンフェルト家マクシミリアン4世ヨーゼフ王号も獲得し、それは1918年まで続いた。また一族からは北欧3ヶ国(デンマークスウェーデンノルウェー)の君主やギリシャ国王も出ている。
== 概要 ==

1180年オットー1世バイエルン公に封じられて以降、バイエルンの地はヴィッテルスバッハ家が統治するところとなったが、その息子であるルートヴィヒ1世ヴェルフ家ライン宮中伯ハインリヒ6世1214年に子を残すことなく死去したことを受けて宮中伯位を継承する。ルートヴィヒ1世の息子オットー2世1222年にハインリヒ6世の妹であるアグネスと結婚したことでライン宮中伯位を継承する正統性を獲得し、結果、プファルツ地方はバイエルンとともにヴィッテルスバッハ家が代々世襲するところとなった。
オットー2世の息子の代でバイエルンは二分化され、長男のルートヴィヒ2世上バイエルンとライン宮中伯領を、次男のハインリヒ13世下バイエルンをそれぞれ継承している。ルートヴィヒ2世が1294年に死ぬとライン宮中伯位は長男のルドルフ1世が単独で継承する一方で上バイエルンの地は次男のルートヴィヒ4世バイエルン王と共同統治している。しかし、両者は後に対立し、1314年にルートヴィヒ4世がドイツ王に選出されると、ルドルフ1世はハプスブルク家の対立王フリードリヒ3世を支持して1317年にルートヴィヒ4世により敗北、ライン宮中伯は剥奪されて1319年に失意のうちに死去する。ライン宮中伯はルドルフ1世の息子であるアドルフが継ぐことを許されたものの実質的にはルートヴィヒ4世の傀儡に過ぎず、1329年に死ぬと弟のルドルフ2世が継承した。同年にパヴィアにて叔父ルートヴィヒ4世と和解して、ライン宮中伯はルドルフ1世の一族が、バイエルン公はルートヴィヒ4世の一族がそれぞれ有することで和解した。以後、ルドルフ1世の系統をプファルツ家、ルートヴィヒ4世の系統をバイエルン家と区分するようになる。
ルドルフ2世の弟であるループレヒト1世ルクセンブルク家神聖ローマ皇帝カール4世1356年に発した金印勅書により選帝侯位を獲得したことによりライン宮中伯はプファルツ選帝侯に昇格した。アドルフの孫であるループレヒト3世は皇帝ヴェンツェル1400年に廃位されたことを受けてドイツ王になるものの世襲化には失敗している。
ループレヒト3世の息子の代でプファルツ家の分枝が形成されるようになった。即ち、次男であるルートヴィヒ3世は選帝侯位を継承してプファルツ選帝侯家、三男であるヨハンプファルツ=ノイマルクト家、四男であるシュテファンプファルツ=ジンメルン=ツヴァイブリュッケン家の、五男で末子であるオットー1世プファルツ=モスバッハ家のそれぞれの祖となっている。この内、三男のヨハンはカルマル同盟の君主エーリク・ア・ポンメルンの妹カタリーナと結婚したことにより、2人の息子であるクリストファはカルマル同盟の君主に選出されるも1448年に子を残すことなく死去したことで断絶して、その遺領の大半は叔父であるオットー1世が継承するも、それも息子のオットー2世の代で断絶して遺領はルートヴィヒ3世の孫である本宗家のフィリップによって回収された。これ以降、プファルツの地は本家であるプファルツ選帝侯家が選帝侯として本領を統治し、分家のプファルツ=ジンメルン=ツヴァイブリュッケン家(後にプファルツ=ジンメルン家プファルツ=ツヴァイブリュッケン家に分離)が宮中伯(公と訳されることも多い)として残りの領地を統治するところとなった。
ドイツで発生した宗教改革の波はプファルツにも押し寄せて、フリードリヒ2世ルター派を採用する。フリードリヒ2世の試みは皇帝カール5世によって断念を余儀なくされるが、1556年に選帝侯位についた息子のオットー・ハインリヒは再びルター派を採用する。1559年にオットー・ハインリヒが男子を残すことなく没したことでプファルツ選帝侯家は断絶し、ジンメルン家のフリードリヒ3世が継承したが、それに伴い宗派もルター派からカルヴァン派に鞍替えした。フリードリヒ3世は1563年ハイデルベルク信仰問答を出版するほどの熱心なカルヴァン派であり、その結果、プファルツ家はカルヴァン派の保護者となり、首都ハイデルベルクはカルヴァン派の牙城となった。それのみならず孫のフリードリヒ4世に至っては1608年プロテスタント同盟を結成してその指導者になるなど、遂には帝国全体のプロテスタント全体を庇護する立場にまで上り詰めた。
そのため息子のフリードリヒ5世冬王ボヘミア等族(有力貴族)によって1619年国王に推戴され、これが三十年戦争の始まりとなる。かねてよりプファルツ家がプロテスタントの盟主として帝国内で幅を利かせていたことを苦々しく思っていた、狂信的なカトリック教徒であるハプスブルク家の皇帝フェルディナンド2世はこれを機に、プファルツ家並びにプロテスタントを壊滅させることにした。これに協力したのが、同じくカトリック教徒かつ同同盟の盟主でもあるバイエルン家のバイエルン公マクシミリアン1世であり、1620年白山の戦いでフリードリヒ5世率いるプロテスタント軍を撃破している。これによりフリードリヒ5世は、ボヘミアのみならずプファルツをも喪失して亡命することを余儀なくされ、空位となったプファルツ選帝侯位並びにその領地はマクシミリアン1世に褒賞として与えられた。しかし、これは明らかに金印勅書に反するものであり、1630年スウェーデン国王グスタフ2世アドルフの介入を招くなど、結果的には三十年戦争を長期化させる事態にまでなった。
なお、この時にフリードリヒ2世はグスタフ2世アドルフから戦線に復帰するよう求められて拒絶はしているものの、同族であるプファルツ=ビルケンフェルト=ビシュヴァイラー公クリスティアン1世は騎兵大将としてグスタフ2世アドルフに加勢している。また同じく同族であるプファルツ=クレーブルク公ヨハン・カジミールはグスタフ2世の異母姉カタリーナと結婚しており、2人の息子であるカール10世アドルフ1654年にスウェーデン王位を継承し、その一族は1720年まで同国を支配することとなった(プファルツ王朝)。
1648年ヴェストファーレン条約が締結されて三十年戦争が終結するが、この時にマクシミリアン1世が奪った選帝侯位はそのままの状態におかれ(これをバイエルン選帝侯と呼ぶ)、フリードリヒ5世の息子であるカール1世ルートヴィヒには新たに選帝侯位とその領域を創設した形で与えられることとなった。同時に、バイエルン家が絶えた際にはプファルツ家がその選帝侯位と領域を継承する取り決めもなされている。
1685年にカール1世ルートヴィヒの息子であるカール2世が嗣子を残すことなく没したことで、ジンメルン家は断絶、同族でツヴァイブリュッケン家の傍系に当たるプファルツ=ノイブルク公フィリツプが選帝侯位を継承するが、ノイブルク家の祖フィリップ=ルートヴィヒがカトリックに再改宗していたことから、プファルツはカトリック信仰に戻ることとなった。ただし、カール2世の妹であるエリザベート・シャルロットと結婚していたオルレアン公フィリップ1世はフィリップ・ルートヴィヒの継承に異議を唱えて1687年から1697年にかけて大同盟戦争が起きることとなった。選帝侯位を継承したヨハン・ヴィルヘルムカール3世フィリップのいずれもが男子を残さなかったことでノイブルク家は1742年に断絶し、サリカ法に則って選帝侯位は同族であるプファルツ=ズルツバッハ公カール4世フィリップ・テオドールが継承することとなった。もっとも、カール3世フィリップは最初の妃であるルドヴィカとの間に娘エリーザベト・アウグステを儲けており、彼女はカール・テオドールの叔父にあたるヨーゼフ・カールに嫁ぎ、2人の娘であるエリーザベトがカール・テオドールに嫁いでいるため、女系を含めれば血縁上の繋がりも近い。
カール・テオドールは1777年にバイエルン家が断絶したことを受けてバイエルン選帝侯位も継承し、結果ヴィッテルスバッハ家は統合された。しかし、カール・テオドールもまた男子を残すことなく1799年に死去したことでズルツバッハ家は断絶し、同族であるビルケンフェルト家プファルツ=ツヴァイブリュッケン公マクシミリアン4世ヨーゼフ(既にビルケンフェルト家はクレーブルク家断絶を受けてツヴァイブリュッケン公位を継承していた)が選帝侯位を継承することとなったが、その母マリア・フランツィカはエリザベート・アウグステの妹であった。
フランス革命戦争の煽りを受けて、マクシミリアン4世ヨーゼフはプファルツを放棄することを余儀なくされるものの、1806年に初代バイエルン国王マクシミリアン1世となり、それは1918年ルートヴィヒ3世が退位するまで続いた。なお、マクシミリアン1世が選帝侯位を継承した際に同族のゲルンハウゼン家の男子にはバイエルン公 (Herzog in Bayern) の称号が授けられている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「プファルツ家」の詳細全文を読む



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