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プラッキーリエージュ(''Plucky Liège'')〔『サラブレッドの世界』サー・チャールズ・レスター著、佐藤正人訳、サラブレッド血統センター刊、1971、p432〕〔『日本の種牡馬録1』白井透・著、サラブレッド血統センター・刊、1969〕、またはプラッキーリージ(''Plucky Liege'')〔『世界の名馬』原田俊治著、サラブレッド血統センター、1970〕〔『サラブレッド血統事典』山野浩一・吉沢譲治、二見書房、1992、1996〕(1912年 - 1937年3月)はイギリスの競走馬。競走馬としては2歳時にわずかばかりの活躍をしたにとどまったが、繁殖牝馬となって産駒が走り出すと、12頭の産駒のうち出走した11頭すべてが勝ち上がり、6頭がステークスウイナー、2頭がクラシック競走に優勝、4頭がイギリス・アメリカ・フランスでそれぞれリーディングサイアーになるなど大成功を収めた。 血統は父がスペアミント、母がコンサティーナ(その父セントサイモン)。16-a族。 イギリスでミケラム公によって生産され、その所有で走った。2歳時にデビューしてからしばらくは名前がなく「コンサティーナの牝馬」として走り、その後ラッキーリージ(Lucky Liege、幸運な王)と名付けられる。そのころ第一次世界大戦が勃発し、折りしもベルギーのリエージュ(プラッキー「リージ」と綴りが同じ)ではドイツ軍相手に大激戦が繰り広げられていた。最終的にベルギー軍はドイツ軍に負けてしまうが、勇敢に戦ったベルギー軍を称え本馬はプラッキーリージ(Plucky Liege、勇敢なリエージュ)と改名された。この年は6戦のうち4勝を挙げ、主要な競走には勝っていないもののフリーハンデでは2歳牝馬として3位に格付けされている。翌年はまったく活躍できず未勝利、1000ギニーでも着外に終わりそのまま引退した。 引退後はフランスで繁殖入りした。25歳で死ぬまでに12頭の産駒を出し、エプソムダービー優勝馬となるボワルセルを産んだときには23歳であった。25歳のときに死産し1週間後に死亡。生涯に12頭の産駒しか残していないが、リーディングサイアーを獲得した4頭を中心に、優秀な産駒たちを通じての後世への影響は並の成功種牡馬を凌ぐほどである。 == 産駒 == *1919年生・牝 - マルグリットドヴァロワ (Marguerite de Valois) 父テディ 4勝 *1920年生・牡 - サーギャラハッド (Sir Gallahad III) 父テディ 12勝、プール・デッセ・デ・プーラン、ジャック・ル・マロワ賞 1930,1933,1934,1940年アメリカリーディングサイアー *1921年生・牝 - ヌアジャハン (Noor Jahan) 父テディ 3勝 *1922年生・牡 - シヴァリー (Chivalry) 父グッドラック 2勝 *1924年生・牝 - ノーブルレディ (Noble Lady) 父テディ 2勝 *1926年生・牝 - エルザドブラバン (Elsa de Brabant) 父テディ *1927年生・牡 - ブルドッグ (Bull Dog) 父テディ 2勝 1943年 アメリカリーディングサイアー *1928年生・牡 - カトルブラ (Quatre Bras II) 父テディ 11勝 *1929年生・牝 - ディアーヌドポワチエ (Diane de Poitiers) 父アセルスタン *1931年生・牡 - アドミラルドレイク (Admiral Drake) 父クレイガンエラン 5勝、1934年パリ大賞典、1955年フランスリーディングサイアー *1933年生・牡 - ベルアセル (Bel Aethel) 父アセルスタン 4勝、1938年コロネーションカップ *1935年生・牡 - ボワルセル (Bois Roussel) 父ヴァトー 2勝、1938年エプソムダービー、1949年イギリスリーディングサイアー *また、直仔以外の子孫にはケンタッキーオークス馬Keeper Hill、ベルモントステークス優勝馬Commendable、種牡馬として活躍したFappiano、オジジアン (Ogygian)、Honour And Glory、Quiet American、シーザリオ、エピファネイア、トーホウジャッカルらがいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「プラッキーリエージュ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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