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プラッツバーグの戦い[ぷらっつばーぐのたたかい]
プラッツバーグの戦い(プラッツバーグのたたかい、英:Battle of Plattsburgh)またはシャンプレーン湖の戦い(Battle of Lake Champlain)は、米英戦争の終結近い1814年9月6日から9月11日にかけて、アメリカ合衆国ニューヨーク州北部で、アメリカ軍とイギリス軍の間で戦われた戦闘である。北部よりニューヨーク州に侵攻しようとしたイギリス軍をアメリカ軍が食い止め、当時協議が進行していた休戦条約で、有利な条件を得ようとしたイギリスの思惑が潰えた。 == 背景 == 1814年、ナポレオン・ボナパルトがフランスの王座から追われた。このことによって、イギリスはよく鍛えられた軍隊を北アメリカに送ることが可能になった。ジョージ・プレボスト総督はアメリカ合衆国に対して攻勢に出るために十分な戦力を持つことになった。プレボスト軍は、フランシス・ド・ロッテンバーグの指揮下に11,000名の正規兵を擁し、ジョージ・ドーニー指揮下の艦隊の支援も期待できた。アメリカとイギリスが休戦条約の交渉を行っている最中、プレボストは五大湖水路を支配するために交渉ネタを得ようとしていたので、この時点で意義有る勝利を挙げようと考えた。プレボストはリシュリュー川を南下し、シャンプレーン湖に至る侵攻路を選んだ。リシュリュー川はシャンプレーン湖と外洋を結ぶ唯一の水路であったので、シャンプレーン湖での交易はカナダを通して行われる必要があった。 ジョージ・イザド将軍が北西辺境のアメリカ軍指揮官であった。プレボストの侵略を前にして、アメリカ合衆国陸軍長官のジョン・アームストロングは、イザドにその部隊の大多数、4,000名を率いてオンタリオ湖のサケットの港を補強するよう命令を出した。アレクサンダー・マコーム准将はわずか1,500名の正規兵だけでシャンプレーン湖西岸のプラッツバーグを守ることになった。シャンプレーン湖の海軍を指揮するトーマス・マクドノーは、海軍長官ウィリアム・ジョーンズよりその年の夏早くに艦隊を造っておくよう命じられていた。1814年の秋までにマクドノーは10隻の砲艇をシャンプレーン湖で使えるようにした。マコームは、ベンジャミン・ムーアーズ将軍に命じてニューヨーク州で民兵を召集し、バーモント州知事にも民兵の協力を依頼させていた。間もなく、マコームの軍隊は正規兵、民兵併せて3,000名以上になった。しかし、民兵の部隊はほとんど訓練されておらず、数百名以上の者は戦闘には適していなかった。マコームは塹壕を掘ったり防塁を造ったりすることに民兵を使った。マコームは病気や怪我をしているが、少なくとも大砲の操作はできる兵士で砲兵大隊を作って、クラブ・アイランドに大砲を据えさせた。プラッツバーグの町民はマコームの反撃策にほとんど信頼を置いていなかったので、9月までに3,000名の町民のほとんど全部が町から逃げ出していた。プラッツバーグの町はアメリカ軍のみによって占領されたような形になった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「プラッツバーグの戦い」の詳細全文を読む
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