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プリュダンス・セラファン=バルテルミ・ジラール(仏語:Prudence Seraphin-Barthelemy Girard、1821年4月5日 - 1867年12月9日)は、カトリック・パリ外国宣教会のフランス人宣教師である。沖縄で日本語を学び、初代フランス公使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールの通訳を務めた。 == 略歴 == ジラール神父はメルメ・カション神父、ルイ・テオドル・フューレ神父と共に、安政2年1月10日(1855年2月26日)に琉球王国に到着した。同年1月14日(3月2日)には上陸を許されたが、厳重な監視下にあり、カトリックへの改宗者は1人も獲得できなかった。しかし、この間に那覇の聖現寺で日本語を習得した。 カション神父は翌年那覇を離れるが、ジラール神父とフューレ神父はそのまま那覇に留まった。この間の安政4年6月(1847年8月)日本教区長に任命される。 安政5年9月3日(1858年10月9日)日仏修好通商条約が締結され、翌安政6年8月10日(1859年9月6日)、初代の駐日領事(後公使)デュシェーヌ・ド・ベルクールが日本に到着すると、通訳としてジラールも江戸に入った。同年11月7日(11月30日)、ジラール神父は幕府にフランス語教授を申し出、受業者の人選を依頼している。しかしながら、ジラール神父によるフランス語教育はあまり普及しなかったようで、本格的なフランス語の普及は元治2年3月6日(1865年4月1日)の横浜仏語伝習所の設立を待つことになる。 万延元年4月(1860年6月)頃、ジラール神父は横浜外国人居留地80番(現山下町80番)に最初のカトリック教会建設のための租借件を取得し、文久元年12月(1862年1月)に完成して、聖心教会と名付けられた(後に移転し、山手教会として現在司教座聖堂)。この教会には、連日多くの日本人が見物に詰めかけ、中には宣教師と言葉を交わしたり、教えを求めたりするものもいた。しかし、まだキリシタンは禁制下であり、文久2年1月20日(1862年2月18日)には、神奈川奉行阿部正外の命により33名が捕縛され、牢に拘禁されるという事件が起きた(横浜天主堂事件)。事件を目撃していたジラール神父は早速、デュシェーヌ・ド・ベルクールへ知らせた。デュシェーヌ・ド・ベルクールは阿部に釈放を求めたところ、直接幕府と交渉してもらいたいと言うことであった。そのため幕府老中に掛け合い、2月14日(3月13日)までには全員が釈放されて、事件は収まった。なお、ジラールは、この事件の解決のため、一旦フランスに戻っている。 また、ジラール神父は聖地長崎に布教し、「日本26殉教者聖堂」の建設のため、沖縄に待機中のフューレ神父とベルナール・プティジャン神父を長崎に派遣した。両神父は1862年12月に来日、翌年長崎に向かい大浦天主堂を建設した。 元治元年(1864年)の四国艦隊下関砲撃事件、翌年に大坂で幕府を相手に行われたその賠償交渉においては、何れも通訳を務めた。 慶応3年11月26日(1867年12月9日)、横浜天主堂は火災のため焼失、ジラール神父も焼死した。遺骸は後に再建された教会の壁に塗り込められた。彼の名を記した大理石碑板が嵌められている。 1858年(安政5年)の日仏修好通商条約から数えて、国交開始150周年となる2008年に、日仏両国の代表的な人物の記念切手が発売された。ジラール神父はその「幕末シリーズ」10人の中に選ばれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「プリュダンス・セラファン=バルテルミ・ジラール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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