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エフゲニー・ヴィクトロヴィチ・プルシェンコ(〔 〕、1982年11月3日 - )は、ロシアの男性元フィギュアスケート選手(男子シングル)。2006年トリノオリンピック金メダリスト。2002年ソルトレイクシティオリンピック及び2010年バンクーバーオリンピック銀メダリスト。2014年ソチオリンピック団体戦金メダリスト。世界選手権優勝3回、欧州選手権優勝7回、グランプリファイナル優勝4回。グランプリシリーズ通算22勝。ロシア連邦功労スポーツマスター。ロシア人名愛称ではジェーニャ。名字はPLUSHENKOの他にPLYUSHCHENKOと表記されることもあり、オリンピックの際にはどちらも使われている。旧採点、新採点の両方でオリンピックメダルを手に入れた唯一の男子フィギュアスケート選手である。 == 競技歴 == === 幼少期 === 1987年2月25日、4歳のとき両親の故郷ヴォルゴグラードでフィギュアスケートを習い始める。7歳のときサマーラで行われた全ソビエト規模のノービス競技会クリスタルスケート〔現在のCISクリスタルスケート〕 で初優勝。競争相手は全員10 - 11歳の少年たちで、最年少での優勝だった〔自伝p.14(英訳 )〕。11歳で高名なコーチのアレクセイ・ミーシンに見出され、単身でサンクトペテルブルクへ移住。 プルシェンコはこの幼少期の経歴ゆえソビエトシステムの最後の遺産とも言われる。ソビエト連邦など社会主義国では、オリンピックは共産主義の優位性を西側諸国に示す場として、プロパガンダに利用された。ソ連各地から選ばれた素質ある子供たちは、時に幼い頃から家族と離され、必要な全てを国から与えられ、優秀な指導陣のもと英才教育を施された。しかしこのシステムは1991年末のソ連崩壊によって瓦解。当時のロシア経済は混乱を極め給料の遅配も相次いだため、指導陣は転職ないし海外で働くことを余儀なくされた。また経営が立ちゆかなくなった訓練施設は次々売却されるなどした。プルシェンコやマキシム・マリニンらが所属していたヴォルゴグラードのリンクも、1993年に自動車ディーラーに売却され閉鎖された。2006年のトリノ五輪に出場した選手団がこのソビエト時代のスポーツ英才児教育で発掘された最後の世代であり、彼らが五輪後に第一線から退いたことが、トリノ五輪後のロシアの国際大会での成績低迷の原因とされている〔イリーナ・ロドニナのインタビュー 「バンクーバー五輪は難しいものになるだろう。トリノにはソビエト時代に育てられた最後の選手たちがいた。バンクーバーでは国が崩壊した後に競技の世界に来た者たちが戦う。彼らは困難な時代を過ごした。スポーツへの注目、資金、指導者がなかった。我々は難局に備えなければならない。」〕〔エレーナ・チャイコフスカヤのインタビュー 「(ドムニナ/シャバリン組の銅メダルのため)ロシアフィギュアスケート連盟はプルシェンコを犠牲にした。それはただ滑稽だった。我々は少なくとも1つの金メダルを得ることも出来たのだ。だが今、プルシェンコは勝ったが我々はそれを持ってすらいない。彼は我々がソビエト時代から持っている最後のものだ。全て我々が蓄え、創りあげた。」〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「エフゲニー・プルシェンコ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Evgeni Plushenko 」があります。 スポンサード リンク
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