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プルート川の戦い(プルートがわのたたかい)は、1711年7月、モルダヴィアのプルト川河岸において行われたオスマン帝国とロシア・ツァーリ国との戦い。大北方戦争の一部である露土戦争中に起こり、オスマン帝国軍とピョートル1世率いるロシア軍が交戦し、オスマン帝国軍が勝利した。この戦いの後、両国はプルト条約を締結し、オスマン帝国及びスウェーデンとクリミア・ハン国はロシアとの戦いに勝利し、露土戦争は終結した。 == 経過 == === 開戦の背景 === 大北方戦争でスウェーデン軍とロシア軍が決戦に入る直前の1708年から両国はオスマン帝国とその属国のクリミア・ハン国と接触、スウェーデン王カール12世はロシアの背後を脅かすことを希望した。しかしロシアのツァーリ・ピョートル1世は1708年から1709年にかけてオスマン帝国と交渉を行い、オスマン帝国がどちらにも味方しない中立の姿勢を取りクリミア・ハン国にも同様の指示を与えたことで、カール12世の目論みは失敗に終わった。 ところが、ロシアが1709年にポルタヴァの戦いでスウェーデン軍を破った後、一転してオスマン帝国は反ロシアに傾いた。原因はオスマン帝国領ベンデルに逃亡した寡兵のスウェーデン軍をオスマン帝国が迎え入れたことにあり、スウェーデン軍を追ったピョートル1世はオスマン帝国にカール12世及びスウェーデン軍の引渡しを要求したが、帝国が拒否したためロシア軍とオスマン帝国の間で戦争が勃発した。 ポルタヴァの戦いに敗れ負傷したカール12世は、側近でポーランド・リトアニア共和国の軍人スタニスワフ・ポニャトフスキとフランスのオスマン帝国駐在大使の援助もあって、ポルタヴァからオスマン帝国スルタン・アフメト3世の宮廷に亡命した。そしてカール12世は1710年11月20日、ロシアに宣戦布告するようアフメト3世を説得、開戦と合わせてイスタンブルのロシア大使が投獄された。このカール12世の工作と宮廷の主戦論者が開戦を主張したことが戦争の原因に繋がった。ピョートル1世はアフメト3世に親書を送り開戦を避ける努力をしていたが、戦争が避けられなくなると1711年2月22日にオスマン帝国に宣戦布告した〔阿部(1966)P140 - P147、土肥、P82 - P85、阿部(1996)、P99 - P105、P109 - P113、武田、P82 - P83。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「プルート川の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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