|
プレミアータ・フォルネリア・マルコーニ(Premiata Forneria Marconi)は、1970年〔I Quelliとしては1964年に結成されている。〕にイタリアで結成されたプログレッシブ・ロック・バンド。1973年からの国際展開に際してピート・シンフィールドの発案〔ライブアルバム『クック=ライブレコーディング=』の国内盤CD(VICP-63229)の解説より。〕でP.F.M.、或いはPFMという略称が使用された〔アルバム『幻の映像』の裏ジャケットや、それ以降の『甦る世界』、『チョコレート・キングス』、『ジェット・ラグ』などのジャケットにもこの略称が使用されている。また、イタリア国内展開時のファーストアルバム『幻想物語』のCDジャケットにも、この略称は使用されている。〕が、母国イタリアでは引き続きフル・ネームが使用されていた。 == 概歴 == 当初はI Quelli(イ・クエッリ)というバンド名で、ディスキ・リコルディから1965年にシングル盤でデビュー。ルーチョ・バッティスティ(Lucio Battisti)のレコーディングに参加した時、バッティスティからバンドを再編成する事をアドバイスされ、確執のあったメンバーと袂を分かち〔アルバム『幻の映像』日本国内盤CD(KICP 2701)のライナーノーツの解説より。〕、プレミアータ・フォルネリア・マルコーニとして1970年12月〔に再スタートした。 1971年はイエスやディープ・パープル等のイタリア公演で前座を務めて〔イタリアの聴衆への認知度を高めていった。そして1972年3月、ルーチョ・バッティスティのレーベルであるヌメロ・ウーノ(Numero Uno)から、アルバム『幻想物語』でデビュー。イタリア国内チャートで最高4位まで上昇し、さらに同年暮れにはセカンドアルバム『友よ』をリリースした。これと前後してELPのイタリア公演の前座として出演し、それがきっかけとなってグレッグ・レイクに注目されてイギリスに招かれ、『友よ』をベースとした英語詞主体のアルバム『幻の映像』〔ピート・シンフィールドが2曲のプロデュース及び英語詞を担当している。〕を制作、1973年3月にロンドンのABCフラム劇場でイギリスでの初ステージを実現し、さらに8月のレディングのロック・フェスティバルに出演。このステージが聴衆から高い評価を得た〔アルバム『友よ』日本国内盤CD(K32Y 2156)の解説より。〕。この時のラインナップはフラヴィオ・プレーモリ(キーボード、ボーカル)、フランツ・ディ・チョッチョ(ドラム、ボーカル)、ジョルジオ・ピアッツァ(ベース)、フランコ・ムッシーダ(ギター、ボーカル)、マウロ・パガーニ(バイオリン、フルート、ヴォーカル)の5人編成だったが、9月にマンティコア・レーベルから国際デビューした前後に、ベースがピアッツァからアレアに在籍していたヤン・パトリック・ジヴァスに交代した。 日本でも国際デビュー直後からマスコミに注目され〔、1975年11月にはボーカルのベルナルド・ランゼッティ(Bernardo Lanzetti)を加えた6人編成で来日して東京(2回)/名古屋/大阪の合計4回公演を行っている〔。 その後、1976年のアルバム『チョコレート・キングス』リリース後にマウロ・パガーニが脱退するなど、グループの改編が続き、1977年にリリースした『ジェット・ラグ』を最後に主軸となる歌詞をイタリア語に戻すなどの変化が生じた。さらにメンバーチェンジを経て、2010年6月現在はディ・チョッチョ、ムッシーダ、ジヴァスの3人〔ライヴでは数名サポートが加わる。〕が正式メンバーとして在籍。数度の休止を挟みつつも長年にわたる音楽活動を続けている。 2002年、1975年以来となった2度目の来日公演を催行、その模様は『ライブ・イン・ジャパン 2002』というCDとDVDとしてリリースされ、さらに2006年にも来日している。 また、近年、不定期で、ファブリツィオ・デ・アンドレ(イタリアの個性派・シンガーソングライター。故人。かつてPFMがバック・バンドを務めてイタリア国内を巡業した)をトリビュートするライヴを行なっており、その模様を収めたDVD "PFM Canta de Andre"、トリビュートCD "A.D.2010 - La Buona Novella" も発表している。2011年には プログレッシヴ・ロック・フェスに出演のため4回目の来日をしている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「プレミアータ・フォルネリア・マルコーニ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|