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プント国(プントこく、プゥエネト、Land of Punt, Pwenet, Pwene, )は、古代エジプトの貿易相手国の一つ。金、香料、アフリカン・ブラックウッド、コクタン、象牙、奴隷、野生動物などをエジプトに輸出していた〔Shaw & Nicholson, p.231.〕。当時、プントは「神の国 (Ta netjer)」と呼ばれていた〔。 プント国の正確な位置は不明である。エジプトの南東にあったとする学者が大勢であり、ソマリア、ジブチ、エリトリア、スーダンなどに比定されている。アラビアにあったと主張する学者もいる。 ==古代エジプトとの交易== 紀元前26世紀、エジプト第4王朝のクフ王の時代、プント国から黄金がもたらされたという記録がある。また、紀元前25世紀、エジプト第5王朝のサフラー王はプント国との交易をおこなっており〔、没薬と白金が輸入されている〔。王もプント交易を行っている〔。その後も、エジプト第6王朝もプント国の記録を残している。 エジプト第11王朝のの時代(紀元前1950年頃)、という人物がプント国への航海を計画しているが、実際に行ったのかどうかは不明である〔。この時代にエジプトから紅海までの陸路の整備が行われている〔。 エジプト第12王朝のと次代のは、プントに探検隊を送り込むことに成功している〔。エジプト第12王朝時代にはという物語が作られており、その中にプント国の詳細な描写が登場する。 紀元前15世紀のエジプト第18王朝のハトシェプスト女王は古代エジプトでプントとの交易に最も熱心なファラオの一人だった。ハトシェプストは、カルナック神殿の埋葬品を調達するため、ヌビアの金を財源に紅海艦隊を作り、アカバ湾の最奥エイラートから、約500年ぶり〔となるプントとの交易を行っていた。ハトシェプストの時代、プントからは乳香と没薬がもたらされている。ハトシェプスト女王葬祭殿には5隻の船団による航海の記録がレリーフで残されている〔〔。そこには、ハトシェプストが航海責任者で大臣でもあるにプントから宝物を奪い取るよう命じたかのような説明があり〔、エジプトに有利な不平等貿易だった様子が伺える〔。もっとも、ハトシェプスト女王葬祭殿のレリーフには誇張もある〔。ネシが行ったのは単なる交易で、対価として青銅製品や装身具などが渡されており〔、その交易もハトシェプストの時代より昔から行われていたものであって、プントの王もネシを歓迎しているとする説もある〔。プントから輸出された品は、香料やコクタンの他、アフリカ各地から運ばれてきた金、象牙、毛皮などだった。レリーフによれば、当時のプント王の名はパラフ、王妃はアティであった〔。プントの住居は高床式だった〔。当時のエジプト人にとって、プントへの航海は今日の月旅行に匹敵するほどの難事業だった〔。ハトシェプスト王の統治9年、神アメンへの航海成功の祈願が残されており、そこに生きたままの香の樹を始めとする宝物を持ち帰るとの決意が述べられている〔E. Naville, The Life and Monuments of the Queen in T.M. Davis (ed.), ''The tomb of Hatshopsitu'', London: 1906. pp.28-29〕。実際、葬祭殿の参道からその香と同じ種類と思われる木片が見つかっている〔。同じく第18王朝のトトメス3世の33年と38年〔や、アメンホテプ3世の時代にもプントとの交易が行われている〔。 プントとの交易は、エジプト第20王朝でも続けられている〔。 エジプト第20王朝の時代、つまりエジプト新王国の時代が終わると、プントとの交易は途絶えた。その後、プントは神話と伝説の国となり、非現実的な夢の国として語られるようになった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「プント国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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