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ヘスペリア号事件[へすぺりあごうじけん] ヘスペリア号事件(ヘスペリアごうじけん、)またはドイツ船検疫拒否事件(ドイツせんけんえききょひじけん)は1879年(明治12年)、ドイツ船ヘスペリア号が日本政府の定めた検疫停船仮規則の実施をめぐって起こった日本とドイツ帝国の紛争事件である。 == コレラ禍 ==
幕末以来、日本にはしばしばコレラが上陸して流行するようになり、コレラに罹患した人はあっけなく死んでしまうので、人びとは「コロリ」と呼んでおそれた。漢字では「虎列刺(コレラ)」「虎狼狸(コロリ)」の字があてられた〔家永(1977)p.98〕〔コレラが日本で最初に発生した「文政コレラ」のときには明確な名前がつけられておらず、他の疫病との区別は不明瞭だったが、流行の晩期にはオランダの商人から「コレラ」という病名であることが伝えられた。それまでの疫病とは違う高い死亡率や激しい症状から「鉄砲」「見急」「三日コロリ」などとも呼ばれた。〕。コレラの流行は、当時の都市生活の衛生状態が劣悪だったことにも起因している〔。西南戦争直後の1877年(明治10年)にも流行し、この年の夏は長崎から関西地方・関東地方に広がって、東京では北品川、市ヶ谷、本所において病院が新しく急造されるほどであった〔。この夏だけで614人がコレラのために死去している〔〔色川大吉によれば、死者は8,000人におよんだという。色川(1974)p.97〕。 このコレラは翌78年にかけても流行し、当時はコレラ菌も未発見で特効薬もなかったところから〔ドイツのロベルト・コッホによってコレラ菌がコレラの病原体として発見されたのは、1884年のことであった。それ以前は、石炭酸が薬と信じられ、また、コレラよけのまじないとして門口にフグがはられることもあった。家永(1977)p.98〕、明治政府は、1878年(明治11年)8月、各国の官吏や医師も含めて共同会議をひらき、検疫規則をつくった。しかし、駐日英国公使であったハリー・パークスは、イギリス人が日本の法規を破ったとしてもイギリスの法規を破ったのでなければ犯罪の要件を構成しないとして、日本在住イギリス人はこの規則にしたがう必要なしと主張した〔家永(1977)pp.98-99〕〔井上(1955)pp.42-43〕。そのうちコレラはますます拡大してしまった〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヘスペリア号事件」の詳細全文を読む
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