翻訳と辞書
Words near each other
・ ヘッセン王朝
・ ヘッセン選帝侯
・ ヘッセン選帝侯国
・ ヘッセン選帝侯領
・ ヘッセン=カッセル
・ ヘッセン=カッセル家
・ ヘッセン=カッセル方伯
・ ヘッセン=カッセル方伯領
・ ヘッセン=カッセル選帝侯領
・ ヘッセン=ダルムシュタット
ヘッセン=ダルムシュタット大公国
・ ヘッセン=ダルムシュタット家
・ ヘッセン=ダルムシュタット方伯
・ ヘッセン=ダルムシュタット方伯領
・ ヘッセン=ナッサウ福音主義教会
・ ヘッセン=フィリップスタール
・ ヘッセン=フィリップスタール家
・ ヘッセン=フィリップスタール方伯
・ ヘッセン=フィリップスタール=バルヒフェルト
・ ヘッセン=フィリップスタール=バルヒフェルト家


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ヘッセン=ダルムシュタット大公国 : ウィキペディア日本語版
ヘッセン大公国[へっせんたいこうこく]

ヘッセン大公国 ()は、ドイツ中部にかつてあった国。神聖ローマ帝国の解体後、1806年ナポレオンがかつてのヘッセン=ダルムシュタット方伯大公の位に格上げした結果成立した。この成立の経緯から、この国は時にヘッセン=ダルムシュタットと呼ばれていた。
== 歴史 ==
ナポレオンのライン同盟に初代大公ルートヴィヒ1世が参加したことから、1815年のウィーン会議で領土の多くを割譲せざるを得なかった。ヴェストファーレン公国の領土は、1803年に帝国代表者会議主要決議からヘッセン=ダルムシュタットが獲得したもので、のちプロイセン王国へ割譲された。しかし、マインツにあった封建時代の重要な要塞を含む、ライン川左岸の数カ所の領土を受け取っている。
1816年、大公国は国名をヘッセン・ウント・バイ・ライン大公国()と変更した。
1867年、大公国の北半分が北ドイツ連邦の一部となり、大公国の主要な南半分が外側に残された(シュタルケンブルクラインヘッセン)。1871年、大公国はドイツ帝国の構成国家となった。最後の大公エルンスト・ルートヴィヒイギリス女王ヴィクトリアの孫で、ロシア皇后アレクサンドラ・フョードロヴナの実兄)は第一次世界大戦後に退位させられた。大公国は共和制のヘッセン民主国となった。
国土の大半はフランクフルト・アム・マイン、ヴァルデック地域、プロイセン領ヘッセン=ナッサウ州と連合して新たにヘッセン州を形成し、第二次世界大戦敗戦まで続いた。ヘッセン=ナッサウからモンタバウル行政区を除いた部分、そしてライン川左岸のヘッセン=ダルムシュタット部分がラインラント=プファルツ州となった。飛び地のバート・ヴィンプフェンはバーデン=ヴュルテンベルク州の一部となった。
第2代大公ルートヴィヒ2世の四男アレクサンダーとその妻ユリア・ハウケの子供たちはヘッセン家から分かれ、両親の隠遁地バッテンベルクにちなみバッテンベルク家となった。バッテンベルク家はヨーロッパ各国の王家と結婚により結ばれている。イギリスへ移ったアレクサンダーの長男ルイスは家名をバッテンバーグ家、そしてマウントバッテン家と改めた。ルイスの娘アリスの長男はエリザベス2世王配フィリップである。イギリスでは1960年に女王とフィリップの間の子孫はマウントバッテン=ウィンザー家(''Mountbatten-Windsor'')とする勅令が出ている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヘッセン大公国」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Grand Duchy of Hesse 」があります。



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.