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ヘルマン・ウォルシュケ(Friedrich Hermann Wolschke、1893年7月31日- 1963年12月19日。姓の日本表記は「ヴォルシュケ」とも)は、ドイツ人実業家。第一次世界大戦の際、ドイツの租借地であった中国・青島をめぐる攻防戦で捕虜となり、日本の収容所で暮らす。大戦終結により解放された後も日本に残り、ソーセージ製造に携わった。 == 略歴 == ブランデンブルク州のラウノに生れる。 食肉職人の徒弟修業を積んだ後、ドイツの租借地であった中国・青島に渡る。兵役に服し、膠州湾海軍砲兵隊(MAK〔 Matrosen-Artillerie-Detachement Kiautschou 〕)第2中隊に属する二等砲兵として勤務。1914年 (大正3年)11月に青島が陥落すると、大阪俘虜収容所を経て、似島俘虜収容所に収容される〔収容所時代の事績については、似島俘虜収容所の記載も参考のこと。〕。 1920年(大正9年)、大戦終結により解放される際には、残留して日本で就職することを希望し、明治屋に雇用されている。明治屋は、同じく似島収容所から雇い入れたカール・ユーハイム、習志野収容所から雇い入れたヨーゼフ・ヴァン・ホーテンと合わせて3名を、銀座に新たに開店する「カフェ・ユーロップ」に配属し、ウォルシュケをソーセージ製造主任、ユーハイムを製菓部主任、ヴァン・ホーテンは喫茶部支配人とした。続いて1922年(大正11年)、明治屋が明治食料株式会社を設立し、本格的にハム、ソーセージの製造に乗り出すとウォルシュケはその主任者になったが、関東大震災により閉鎖。ウォルシュケはしばらく、西品川・三ツ木にあったアウグスト・ローマイヤーのソーセージ工場に勤務している。 その後、神戸に移り、1927年(昭和 2年)には、関東大震災で横浜から移住していたマーチン・ヘルツと共に、 北長狭通1丁目176番邸にソーセージ製造の会社を起こす〔 In Firma M. Herz Nachf. H. Wolschke, Deutsche Wurstmacherei〕。ヘルツはその後、ドイツに帰国しているが、ウォルシュケは1934年(昭和9年)、アメリカからプロ野球チームが来日した折には、甲子園球場でホットドッグを販売した〔これが、日本初のホットドッグとされている。〕。 さらにこの後、神戸を離れ、長野県軽井沢町に自分の店「ヘルマン」を創業する。太平洋戦争中は同盟国ドイツの人間でありながら事実上の営業休止に追い込まれ、長野県野尻湖畔で軟禁生活を送ったが、戦後は、東京・狛江市にある牛豚の加工施設を借り受け、ハム・ソーセージの製造を本格的に再開した。また、群馬県渋川市の児童養護施設・子持山学園に毎月ハム・ソーセージを届けるなど、慈善事業にも熱心に取り組んでいる。 1963年(昭和39年)暮、出かけようとして上野駅頭で倒れ、死去。東京・狛江の泉龍寺にある墓碑には、「遥かなる祖国ドイツを誇り、第二の故郷日本を愛したヘルマン・ヴォルシュケここに眠る」と記されている。 「ヘルマン」は次男のヘルマン・ウォルシュケ氏(父と同名)が後を継ぎ、神奈川県厚木市でソーセージ製造を続けてきたが、現在は日本ハムファクトリー株式会社に営業譲渡し、同社のブランド「ヘルマン工房」としてその技を伝えている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヘルマン・ウォルシュケ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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