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ヘルマン・ホフマン : ウィキペディア日本語版
ヘルマン・ホフマン

ヘルマン・ホフマンHermann Hoffmann1864年6月23日 - 1937年6月1日)はイエズス会所属のドイツ人宣教師哲学者教育者作家である。1910年に来日、上智大学の設立に奮闘し、1913年から1937年まで初代学長を務めた。
== 生涯 ==
1864年元治元年)6月23日、ドイツライン地方エルベルフェルトで生まれる。同年7月17日に洗礼を受け、1880年明治13年)9月30日、16歳の時にイエズス会に入会し、オランダで2年間、修道生活の教育を受けた。1885年(明治18年)、21歳の時からオーストリアフェルトキルヒにある中学校で教壇に立ち、フィシェルという教育家の指導の下、教育者としての基礎をつくった。1889年(明治22年)、25歳の秋から再びオランダのエクサーテンで哲学を学び、1892年(明治25年)にはイギリスのデントン・ホールに渡り神学を学んだ。1895年(明治28年)7月30日、31歳の時に司祭に叙階され、同年8月にオランダのマーストリヒト郊外のファルケンブルクにあった聖イグナティウス大学に移り、その後さらに3年間、神学を研究した。1898年(明治31年)から7年間は、同大学で哲学部長として哲学を教えた。
1906年(明治39年)に、教皇ピオ10世より「日本に高等教育機関を設置すること」の要請を受けたイエズス会は、ヨゼフ・ダールマン、アンリー・ブシェー、ジェームズ・ロックリフの3名の派遣を決定し、1908年(明治41年)10月18日に来日した。2年後の1910年(明治43年)2月20日、ロックリフの帰国に伴い、ホフマンはロックリフの後任として来日した。獨協学園(現在の獨協大学)でドイツ語を教えながら大学開設のため尽力し、翌1911年(明治44年)4月6日には、同年7月1日の私立学校令改正に先立ち、『財団法人 上智学院』の設立認可を受け、ホフマンは理事に就任した。
上智学院の設立によって大学の法的設立者は用意されたので、次にホフマンは大学の用地取得に奔走する。数ヶ月の努力の結果、小石川に候補地を見つけたが、ブローカーを介しての数度の交渉も空しく断念することとなった。次に麹町区紀尾井町(現在の敷地)が見つかり、数度の交渉の末、1912年(明治45年)3月23日、契約が成立した。その後、ホフマンは当時の文部省と交渉を重ね、ついに1913年大正2年)3月28日、専門学校令による設立許可を得て『上智大学』が誕生し、ホフマンは初代学長に就任した。
その後も、1914年(大正3年)には第一次世界大戦の影響でドイツからの援助が一時途絶えてしまったり、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災による校舎倒壊や、1932年昭和7年)に起きた上智大生靖国神社参拝拒否事件など、数々の難題に直面しながらも重要な職務を遂行し、1929年昭和4年)5月8日には大学令による大学への昇格認可を受け、ホフマンは同日付けで新しい上智大学の学長に就任した。
1936年(昭和11年)の夏頃からホフマンは体調を崩し、同年11月には聖母病院に入院した。1937年(昭和12年)3月3日には、ホフマンの病状を聞いた天皇陛下から銀杯が下賜された。同年4月頃から容態がさらに悪化し、同年6月1日未明に死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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