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ヘンリー・アガード・ウォレス(Henry Agard Wallace, 1888年10月7日 – 1965年11月18日)は、アメリカ合衆国第33代副大統領(1941年から45年)。アメリカ合衆国農務長官(1933年から40年)・商務長官(1945年から46年)。1948年の大統領選挙に二大政党の指名を受けず立候補した。 == 略歴 == アイオワ州アデール郡オリエントの近くの農場に生まれる。1910年にエームズのアイオワ州立大学を卒業し、1910年から1924年までデモインで『Wallace's Farmer』紙の編集部に勤務した。また1924年から1929年まで同紙の出版者であった。彼はトウモロコシの高収量品種の実験を行い、農業に関する著書を多数出版した。1915年には市場における第一の品種となるトウモロコシを考案し、彼が設立した会社は現在パイオニア・ハイブレッドとして知られ、アメリカに於いて最も高収益を誇る企業の一つである。 1933年にウォレスはルーズベルト大統領によって農務長官に指名された。彼は共和党に所属していたが、ルーズベルトのニューディール政策を支持し民主党に入党した。ウォレスは1940年9月まで農務長官を務め、副大統領の指名を受け農務長官を辞任した。彼は1940年11月にフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領の伴走候補者に選出され、1941年1月20日から1945年1月20日まで副大統領職を務めた。 ウォレスは副大統領としては異例の要職を任されるなどルーズベルトに信頼されたが、後に意見が衝突、1944年の四選出馬に際しては副大統領候補に指名されず、事実上更迭された。民主党はルーズベルトの健康状態を懸念し、ミズーリ州選出のベテラン上院議員ハリー・トルーマンを副大統領候補に推す。ただしルーズベルトはウォレスを商務長官にすることで報いている。ウォレスは同職を1945年3月から1946年9月まで務めた。 1948年大統領選挙に、新規結成した進歩党から出馬し、一般投票で2.4%の票を得ている。 彼自身の立場は共産主義とは異なるが、戦後の反共運動への同調は拒んでいた。 反核、反帝国主義を訴え、徹底した平和主義で、大統領職には就けなかったが、アメリカの良心と呼ばれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヘンリー・A・ウォレス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Henry A. Wallace 」があります。 スポンサード リンク
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