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ヘンリー5世(Henry V, 1387年9月16日 - 1422年8月31日)は、ランカスター朝のイングランド王(在位:1413年 - 1422年)。ヘンリー4世と最初の妻メアリー・ド・ブーンの子。クラレンス公トマス、ベッドフォード公ジョン、グロスター公ハンフリーの兄。ヘンリー6世の父。 若年の時から戦いに参加し、父を助けてランカスター朝成立期の国内平定に貢献した。 1413年3月20日に即位すると積極的な大陸経営を目指し、翌1414年、フランス国内のブルゴーニュ派とアルマニャック派の内紛に乗じて休戦中であった百年戦争を再開して、1415年10月25日アジャンクールの戦いで大勝し、フランス軍主力を壊滅させた。 1420年6月2日、フランス王シャルル6世の娘キャサリン(カトリーヌ)と結婚、トロワ条約を締結して自らのフランス王位継承権を認めさせ、ランカスター朝の絶頂期を築いたが、2年後に急死した。 == 生涯 == === 若き日のヘンリー === ヘンリー5世はウェールズのモンマスにあるモンマス城のゲートハウスで生まれた。父は即位前のヘンリー・オブ・ボリングブロク、母はヘリフォード伯ハンフリー・ド・ブーンの次女で当時16歳のメアリーである。彼が生まれた時期のイングランドは父の従兄・リチャード2世の統治下にあり、王位継承からはかなり離れていた。そのため出生日さえはっきり分かっておらず、1386年か1387年の8月9日か9月16日の説が有力とされている。 1398年、12歳の時に父がフランスに追放された。既に母も他界していたヘンリーを国王リチャード2世は引き取り、優遇した。 再起を図る父の率いるランカスター派が1399年にイングランドに上陸すると、リチャード2世は捕らえられてしまう。こうして父がヘンリー4世として即位し、彼もプリンス・オブ・ウェールズに叙せられる。そして1399年11月10日にランカスター公に叙された〔他にもコーンウォール公・チェスター伯・アキテーヌ公に叙された。実際に管理を始めたのは1400年10月からである。〕。 数年ののち、彼はイングランド軍の一部の指揮を実際に執るようになった。1403年のオワイン・グリンドゥール(オウェイン・グレンダワー)の反乱に際しては自分の軍隊を率いてウェールズに向かい、さらにこの反乱に加担したヘンリー・パーシー(ホットスパー)に対しても、取って返して父の軍と合流し、で打ち破った〔16歳の王子の顔に矢が当たり、瀕死の重傷を負ったのはこの時の事である。通常の兵士であれば見放されてしまうような傷であったが、ヘンリーは最高の治療を受け、数日の後にはそれ以上傷が広がらないような形で矢尻を抜くことに成功した。ヘンリーの顔には永久に消えない傷が残ったが、何とか一命を取り留めることはできた。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヘンリー5世 (イングランド王)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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