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ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス : ウィキペディア日本語版
ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス

ヘールトヘン・トット・シント・ヤンス((Geertgen tot Sint Jans)(1465年頃 - 1495年頃))は初期フランドル派の画家。神聖ローマ帝国領(ハプスブルク家)の北部ネーデルラントの出身で、諸外国ではほかに 「ヘールトヘン・ファン・ハールレム''Geertgen van Haarlem''〔Getty ULAN entry He may also have been known as Gerrit Gerritsz - see Campbell, 232〕」などさまざまに呼ばれることがある。トット・シント・ヤンスが生きていた当時の記録は残っておらず、最初に名前が出てくるのは後世の画家・美術史家カレル・ヴァン・マンデルが1604年に執筆した『画家列伝 (''Het Schilderboeck'')』である〔The ''Schilderboeck'' in the ''Digitale Bibliotheek der Nederlandse Letteren'' (''DBNL'', "Digital Library of Dutch Literature")〕。
ヴァン・マンデルの著作『画家列伝』では、トット・シント・ヤンスは、北部ネーデルラントで最初に油彩を用いた画家の一人アルベルト・ファン・アウワーテルの弟子ではないかとされている〔。どちらの画家もハールレム在住だった〔 〕。シント・ヤンスは聖ヨハネ騎士団の平修士ではなかったかと考えられており、騎士団のために祭壇画を描いた記録が残っている。『画家列伝』ではトット・シント・ヤンスは騎士団には直接参加していないが、その通名である「シント・ヤンス ''Sint Jans''」は騎士団の名前の「聖ヨハネ ''Sant Johannes''」にちなんで名づけられたとしている。
== 生涯 ==
ヴァン・マンデルは、シント・ヤンスがハールレム出身だとしているが、現在では、当時ブルゴーニュ公国の一部で後にハプスブルク家の神聖ローマ帝国領となるネーデルラントのライデンに1465年ごろ生まれたと考えられている。

シント・ヤンスがライデン出身であるという根拠は、版画家ヤーコプ・マータム :en:Jacob Mathamの、トット・シント・ヤンスの作品をコピーした17世紀の版画に「ライデンのヘラルドゥス ''Gerardus van Leydanus''」としてトット・シント・ヤンスについて言及しているためで、この言及に対する異論は当時の記録には見つかっていない。この版画はトット・シント・ヤンスが1484年頃に描いた、現在ベルリンの絵画館所蔵の『キリストの哀悼』をもとにして制作されたもので、左下隅に「''Cum privil. Sa Cae. M. - Gerardus Leydanus Pictor ad S. Ia Bapt. Harlemi pinxit''」とあり、これはトット・シント・ヤンスがライデン出身の画家でハールレムの洗礼者ヨハネ修道院にいたということを意味している。右隅には「''Theodorus Matham Sculpsit. Iac Matham excud''」とあり、息子のテオが絵画から模写し、父ヤーコブが木版にしたという意味である。この木版画は1620年にハールレムで制作されたものなので、この木版画のもととなった絵画が当時ハールレムに存在していたということになる。ヴァン・マンデルの著作によれば、『キリストの哀悼』はもともとハールレムの洗礼者ヨハネ修道院にあった三連祭壇画の右翼内側に描かれていたもので、宗教改革の後に2枚に切断された作品である。切断された絵画は現在どちらも非常にもろくなっており、それぞれ別の美術館に所蔵されている。
トット・シント・ヤンスは1495年ごろに28歳くらいでハールレムで死去し、聖ヨハネ騎士団の管区域に埋葬された〔
〕〔。現代の研究者たちは、ヴァン・マンデルの『画家列伝』の記述などからトット・シント・ヤンスの正確な没年月日を明らかにしようとしてきたが、未だに正確な没年月日は判明していない。
現在のハールレムはアムステルダム郊外の閑静な都市だが、14世紀にはホラントの主要都市だった。ドルトレヒトに次いで2番目の都市であり、デルフト、ライデン、アムステルダム、ロッテルダムなどよりも隆盛していた。1429年には市内を流れるスパールネ川などの通行税徴収権も獲得し、中世の終わりごろのハールレムは、繊維産業、造船業、ビール醸造業などの産業で繁栄していた大きな都市だった。
ヴァン・マンデルはその著書に、ルネサンス期のドイツ人芸術家アルブレヒト・デューラーがトット・シント・ヤンスのことを「生まれながらの画家」と評したと記述している。しかしながらデューラーがネーデルラントを旅したときの日誌にはトット・シント・ヤンスについて触れておらず、これはヴァン・マンデルが尊敬していたハールレム出身の同僚を喜ばせるための誇張だったと考えられている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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